心の時代といわれています。日本人のバックボーンとなっていた「自利利他」の伝統思想、
「自分の生命を犠牲にしても子孫のために」という先祖伝来の生き方、家族の源流を
足立氏にみながら新しい世紀にふさわしい家族の創造を考えましょう。
竹内 正道
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第一章 家族の源をたずねて はじめに 家 族 もろい核家族 理想の家庭 人間関係 2 先祖のこと 第二章 足立の元祖をもとめて 姓 名 青垣町と足立姓 青垣町の足立史跡 家の永続性 足立氏ふるさとの風土 第三章 鎌倉時代の足立氏 足立遠元 2 3 源 頼朝 2 比企尼の一族 足立藤九郎盛長 頼家と実朝 足立遠元の子孫 鎌倉時代と宗教 北条氏と足立の関係 足立藤九郎盛長の子孫 もののふの道 源氏将軍たちの信仰 北条泰時 時頼の信仰 安達泰盛と時宗 第四章 足立氏列伝 足立遠政 後醍醐天皇と丹波の足立氏 遠谿祖雄 足立宗次入道左衛門尉基高 南北朝時代の足立氏 足立権太兵衛基則 足立基則の子孫 足立氏と赤井氏 足立正興とその兄 足立氏忠臣蔵 足立権九郎基兼 足立重信 足立藤九郎保宗 北九州の足立氏 南九州の足立氏 中国地方の足立氏 岐阜県郡上の足立氏 三河の足立氏 足立氏の家紋 姓氏大辞典と足立氏 二つのあだち郡 第五章 先祖の生き方を学ぼう |
皇居外苑 楠木正成像 1897(明治30)年 高村光雲作 2003.3.10
家族の源をたずねて
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VOL.1 2000.10.13
はじめに
家族のあり方がいま大きく変わってきて、日本の社会を根底からゆり動かしています。「家族の多様化」とか「家族崩壊」さらには「家族破壊」という言葉がキーワードになっています。これまで経験しなかったような不気味なことが相ついで起きています。新潟の少女誘拐、名古屋の中学生の5,400万円恐喝、豊川の主婦殺害、佐賀のバスジャックなど、毎日何か異常な事件が続出、それを取り締まる警察の不祥事、わがままいっぱいでルールを守らないことが多すぎる世相となりました。 少年事件が起きるたびに家庭の父性の不足、父親の存在がなかったり、母親の母性の歪み、離婚による不在とか溺愛、無神経、優しさの欠如とかが原因とされています。ユングが母性の本質は「慈しみ育てる」面はあるけれども「狂宴的な情動」と「暗黒の深さ」があり、すべてを呑み込む恐ろしさがあるとしていますが、その悪い面が表面化した事件が多くなってきました。その原因は、性別役割分担をした夫婦と未婚の子からなっていた家族が変わってきて、晩婚化や結婚しないもの、子供をもたない夫婦、離婚の増加などから普通の家族のあり方が変わってきたことによります。 慣習や親の意思で結婚するのではなく、当事者が幸福を追求し、恋愛や性格の一致などで配偶者えらびをし結婚して家庭をつくる核家族は、義務や伝統にしたがうよりも個人の自由と幸福につながるとされました。しかし、感情面で結ばれるということは「結婚したいから結婚した」のであって「愛がなければ離婚」ということになり、家族の不安定さの原因となります。アメリカでは結婚した夫婦の半数が離婚するといわれていますが、最近の日本でも29万余が毎年離婚しています。 「自分たちの幸福な家族」をつくるのに、愛情が家族の絆になってしまうと、愛情や情緒というあやふやなものが中心となり、家庭は「幸福」を消費する自閉的な場となり家族は弱体化しました。男性は家庭を「幸福」にするため給料をもち帰ることで愛情表現をし、妻は子供の育児や夫のために家事をすることが愛情表現となり、自閉的な空間の中で育児の責任や家事をひき受けた母親が育児ノイローゼや児童虐待をしたり、さらに高齢者の介護を抱え込むと愛情どころではなくなってしまうということもあります。 戦後物の豊かな生活、高収入を得るため地位の高さなどを求める欲望に人々はとりつかれ、それを満足させてくれる夫であり、子供の学力、進学を求めました。しかし、それを獲得できるのは恵まれた少数のものだけであり、その欲望によって心の充足は得られなくなったものが多くなりました。物の豊かさは、家電製品、家具、車の購入等であり、それを満足さすと、なにものにも束縛されない自由を求めることが近代的な生活の仕方という考えもでてきました。 少子化がすすんでいます。20世紀は毎年83万人ずつ人口増加をみましたが、21世紀は年平均60万人ずつ人口が減少します。核家族が増加し、2,746万世帯となり、単独世帯も1,227万世帯となりひとり暮らしが増えています。自分の好きなように生活している夫婦に育てられた子供はきままで躾などできていませんし、親が家庭にいない希薄な関係の子供が多くなっています。子供の面倒をみるより自分たちが遊ぶこと、楽しむことを優先させている親も増えています。 少年非行の問題、家族の崩壊こそが21世紀最大の課題で「心の豊かな社会」を創造するのならさけられない問題です。われわれは「現在や未来の人々を幸せにする」ことを目標にかかげた生き方、他者の喜びを喜び、他者に役立つことをする自分に生きる価値と存在理由をもつという「心の豊かな社会の創造」につとめたいものです。男性が弱くなったといわれていますが父性の原理をみなおす必要があります。 「家族の源流」を考えるとき、「家の制度」がいつ始まったかを問題としなければなりません。父性の強かった家父長的「家」は鎌倉時代に成立したというのが一般的です。「家」は武家社会成立の中で発生し戦国期から織豊時代に発達したのです。家の先祖のことは寺院の過去帳に記録されていますが、寺院のほとんどが荘園制の崩壊から郷村制の成立期に草創されています。つまり応仁の乱(1467)頃から、江戸幕府の宗教統制が強化される寛文5年(1665)の200年のあいだのことです。 鎌倉幕府を創立した足立氏の歴史を調査して、父性の原理としての家族の源流をみていき、「家の永続」を大切にした生き方を追求していきます。
VOL.70 2002.7.25
家 族
家族についての考え方が、今大きく変化してきています。ライフデザイン研究所(東京)の生活意識調査では、従来の家族観を維持しようとする層と、家族の多様化を積極的に認めようとする層にわかれるといっています。スウェーデンやデンマークでは出産の半分が婚外出産でイギリスやフランスでも30%以上がそうであるというのです。未婚のまま子供を産み育てる新しい生き方をする女性が増えています。 戦前生まれのものは、これまでの家族制度があたりまえとして生きてきましたので、娘や孫娘が結婚もしないのに出産することにはとてもショックを受けるのです。 新しい「民法」によって「家」制度は廃止され、一組の夫婦と、その未婚の子供だけでの家族で「核家族」があたりまえになりました。結婚は当事者の合意でなりたち、結婚によって新しい戸籍がつくられ「家」の相続は不要で、財産は配偶者と子どもに分割して相続し、扶養の義務も家族の構成員によって平等に負担するようになりました。そして、いまこの核家族すらが変化をとげて、配偶者のいない未婚の母子家族が増えているのです。 このように家族観がしだいに変化すると、本来もっていた家族の機能はどうなるのでしょうか。家族は人間にとって重要な機能をもっていることはいうまでもありません。 封建的な「家」に対する批判はきびしくなされましたが、民主的な「核家族」が家庭の大切な機能と人格形成にどれだけ役立ったか疑問視されています。家庭の教育力の低下、放任主義による少年非行、安易な結婚と離婚など家庭の崩壊が大きな社会問題となっています。 日本の高校生はひどく活力を喪失しているとの日本青少年研究所の報告があります。「学校に誇りを持てず、勉強離れも進み、積極性を失い、自分はだめな人間だと思っている」と悲観している高校生が73%もいるというのです。学校生活に張りがあると感じている生徒が少なくなったようで自分自身を貶める自己否定型の高校生が増えています。
VOL.71 2002.7.29
もろい核家族
人の幸福・不幸にとってもっとも関係が深いのが結婚で、愛しあい、ともに生活し、子供の養育をともにしてその成長を願うのが家族です。気のあった2人が愛情で結ばれ、信頼しあい、一緒に暮らし、子供が生まれるとその養育につとめることが家族の前提です。好きあった男女が生活をともにし、気楽に2人の世帯をもって、自由きままに暮らすためには「ババ抜き」は必要条件で、経済的に恵まれればしあわせ一パイということです。 結婚して家事の負担がふえ、それに出産・育児などで孤立無援になった女性の負担は大きく、特に育児という未経験なことは「愛」や「好き」だけではどうにもならないことが多いのです。そして共稼ぎをしなければ生活維持ができないとなると、夫の能力のなさにイライラしてきます。 親が親の役割を果たさなくなったダメ親によい子が育つわけはなく、子供なんか産まなかった方がよかったと思っている母親も多いです。「手抜きした母親」に育てられ、「社会的動物として一人前に」育てようとしない父親のもとで育った子供が、家庭内暴力をふるったり、友達の人格を尊重できない子供になったとしても本人だけの罪ではありません。 結婚を物心両面で「よりよい生活」ができると考えていた男女にとって不幸の原因は「愛の欠如」と考えてしまい、愛がなければ婚姻の継続は無意味となるのです。嫌になったから離婚はあたりまえとして「無過失離婚」がふえています。 若い時は核家族を当然と考えていたものも老齢になると直系家族を願っているものも多いです。自分の両親はほっておいて、自分は子や孫と共に生活をして老後を送りたいと思っているのです。特に少子高齢化社会となり家の存続ができなくなってきましたので、よけいに家の後継者がほしい老人がふえ、先祖の祭祀のことも気にするようになるのです。 子供をもつ必要はないという考え方のうらには、子供に負担がかかり生活に余裕がないという理由によるものや、パチンコに夢中になって子供を死なせたように、子供の面倒を見るより自分が遊ぶことを優先させてしまった親の姿がみえます。豊かな社会の日本の貧しさです。家も滅び、人口も減って社会も滅びていくのでしょうか。 少子化現象は女性の晩婚で出産数が少なくなっていることが一番大きな原因で一人っ子が多くなっています。一人っ子は親の愛情過多で過保護になったり親のペット化してしまい人との接触に慣れず、人間関係を希薄化させる原因にもなっています。
VOL.72 2002.8.3
理想の家庭
仏教は家族のことをどのように考えていたのでしょうか。仏教は家族制度の伝統のうえにたって、社会倫理の基本的な考え方、すなわち平等と慈悲と報恩を実現しようとしています。 原始仏教聖典に釈尊は「子どもたちが、人々のよりどころである。そして妻が、最高の友である」といわれています。夫にとって妻は最高の友であり、子どもがよりどころであるのですが、そうした幸福な家庭をいとなむための教えとして『六方礼経』があります。それには、夫が妻に「仕える」のに対し、妻は「夫を愛する」こと、夫婦とも「不邪婬戒を守る」こと、夫は妻を「尊敬する」こと「軽蔑しない」こと、妻に「権限を与える」こと、「物質的にも愛情を示す」ことが説かれ、妻には「家事をよく処理する」こと、「集めた財産を守る」こと、「なすべきすべての事がらについて、巧妙にしてかつ勤勉である」ことが説かれています。 親子の関係については、子に対する親のつとめとして、「悪から遠ざけ」「善に入らしめ」「技能を習学せしめ」「似合いの妻を迎え」「適当な時期に相続させる」こと、また子の親に対しては「親に養われたから親を養う」「かれらのために為すべきことをしよう」「家を存続しよう」「祖霊に対し供物を捧げよう」というつとめを説いています。 平等思想が普及して、人間の最も大切な上下関係が喪失してしまった結果、少年による犯罪が増加の一途をたどっています。家庭での幼児期からの躾が大切なことはいうまでもありませんが、あまりに教育能力のない親が多いですし、自分自身の倫理、道徳的心情または信念をもたない親が多いことに問題があります。 いつの時代でも、どんな社会でも伝統や社会組織の中で個人は生きているのですが、過去から伝えられたものは古くさいし封建的であるとして無視し、自分の家族や親戚、あるいは近隣とのつきあい、職場のつきあいも煩わしいとして参加せず、身勝手で自由に生きることが望ましいと思うものが多くなってきました。最も信頼できるはずの家族を軽視したり無視して生きることが自由な生き方であるように錯覚して、自己流に足かせのない場所に身を委ねる若者が多いです。
VOL.5 2000.11.10
人間関係
人の一生は不思議なものです。人は生まれようとして生まれてきたのではなく、親のもとに生まれていたのです。そして、養育され成長しますが、与えられた生命を大切に生きるとしても、自分では予測できない死がまちかまえています。親の精子と卵子の結合で生命は誕生するのですが、数多い男女のなかからどうして二人は結婚し、子供の親となったかは不思議な縁としかいいようがありません。 「袖ふりあうも他生の縁」といいますので偶然でなく、すべて前世からの因縁によるのかもしれませんが、まことに不思議な縁により結婚し、「子宝に恵まれ」て親となり、新しい生命を養い育てます。「子供を作る」などといっていますが、子供は親の意思どおりになるものではなく、「授かったもの」であり決して親が自由に支配できるものではありません。そして、親にも両親があり、その両親にも親がありますので、2人、4人、8人と親の縁が増え、そのいずれが欠けても自分は存在し得なかったということになります。その数は先祖を遡っていきますと限りなく増加し、鎌倉時代まで遡って先祖を探すということになりますと億の数の人との縁につながることになってしまいます。 このように人は無数の縁によって生まれ、成長し、社会で生活して生きる存在で、縁によって生かされていますので、仏教では「縁生」といっています。「死」によって消滅するはかない存在ではありますが、生かされて生きていることを知り、有縁の人と相互に扶けあって生きる以外の生き方はありません。そして同時に、あらゆる人は一人として同じ生命をもつということのない個性的存在でありその意味で、一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ存在でありますので、自分の一生は自分で責任をもつということになります。 人は、はかり知れない無数の縁によって生命を与えられていますので、自分は「生きている」というより、「生かされている」という自覚のある生き方が大切なのです。
VOL.6 2000.11.17
人間関係 2
ところで最近、先祖と子孫をつなぐ最も大切な結婚について考え方が変わってきたといわれています。男女ともに結婚離れが静かにすすんでいるといわれています。若い男性にとって家事・育児を分担し、家計を満足させ、場合によっては少子化の現実から妻の両親の面倒をみなければならなくなるようでは、結婚は束縛でしかないというのです。また女性にとっても、独身時代の自由で楽しい生活と消費レベルを落としたくないし、自分にふさわしい相手でないと結婚したくないのです。 子供の養育についても、いろいろの変化がみられます。最近の子供は「社会のルールや道徳心に関して、家庭で親から躾られていない。アメリカ・イギリス・ドイツ・韓国の子どもと比較して、非常に意識が低い」とか、「友人を思いやるなどの友人関係の希薄さ」が感じられるとかいわれています。「人間関係が希薄」な家庭で、子供の躾などできませんし、学習も基本的な生活慣習も学校まかせで、学校で教師に気に入らないことをいわれると反感をもつようになります。 明治の初期に日本にきましたアメリカの動物学者エドワード・モースはその著書の中で桜見物の群衆が温和で礼儀正しく、落書きやゴミがないのに驚いて「日本ははるかに文化の程度の上の国」としていますし、「日本人はいかなる人間に対しても、人間の価値、お互いの価値を認めあう」と書いていますが、現在の日本の現況をどのように評価するでしょうか。日本人が長年かかって培ってきました「相手を思う心」を再生しなければならないと思います。そしてその思いは、生きている人だけではなく、過去に遡って先祖を想うことへと発展します。 伝統的な日本人の美徳とされていたものがどんどん失われています。戦後の工業化社会の進展と高度経済成長の中で、人間として最も大切であったものすら失われてしまいました。今の社会で、学校教育の歪み、家庭内親子関係の崩壊、社会情勢の変化などから、自分に自信がもてなくなり誰かの指示がほしい人が増え、これがカルト宗教に入信する原因となっています。仏教は自分の心に安らぎを与え、相手に思いやりをもてるよう先祖供養を通じて「慈悲心」を教えてきました。
VOL.73 2002.8.5
先祖のこと
祖先崇拝は日本人の日常の中にあり、道徳的な規範の根元として永い間日本人の伝統的な生活信条となっていました。 このことについて柳田国男氏が「先祖の話」を書いています。それによりますと、先祖という言葉は二種類の意味で使われていて、「家の最初の人ただ一人が先祖であり、古い時代に活きて働いていた人のこと」で自分達の家を創立し家の基本をきずいた人であると思っている人と、「先祖は祭るべきもので、自分の家で祭るのでなければ、何処も他では祭る者の無い人の霊、即ち先祖は必ず各々の家々に伴うもの」と思われているものとであります。 家の根を太くたくましくするため長子家督相続をすることにより、長男は家代々の先祖を祭り、まつりごとや法事を盛大にすることがつとめであるとする家と、子供達に分割相続をさせてどの子も幸福にしてやりたいとの考え方は昔からありました。 人は死後祭ってもらいたいという念願、死後も敬愛されたいという願いがあります。そこで子孫は祭る先祖を限定したわけで、本家の先祖は祭らなくてもよく、祭られない先祖をどこかで祭ることはしてはならず、正統嫡流が、先祖伝来を祭る資格があり、分家にはその資格がなく、分家の最初の人を先祖とすればよかったのです。 このことは藤原氏の子孫だという家系がたくさんありますが、藤原氏であったというきめてのない系図が多くあります。藤原氏自体も先祖は天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という神様ということになっていますが、これを先祖とはしていませんし、初めて藤原姓を賜った鎌足を祭っている家もなく、鎌足の孫の男四人の系統のうち藤原北家の房前を先祖にしているといわれています。 このように家というものも、人の一生と同じで天寿のようなものがあり、古い家系が消滅して、分家が勢力をもち、その分家もいつか消滅して、分家の分家が栄えて、それもいつの日か消滅するという歴史をくりかえしています。 「家」の制度は鎌倉時代の武家社会で発生し、織豊時代から江戸初期にかけて発達し、広まったとされています。現在ある寺院の大半が、郷村制の成立とともに創立されていますことと関連しております。武家をはじめ、農民や町人による家の形成により、その祖霊を祭る寺が建立されていったのです。 先祖崇拝が「家」の成立と深いかかわりをもったことはいうまでもありません。先祖崇拝は古くから伝えられている「先祖の祭り」で、先祖、祖先、祖霊ともよんで「先立てるミタマ」を祭ります。父の父を「祖父」、その先代を「曽祖」、さらにその先代を「高祖」ともいい、さらに古い先祖を「太祖」ともいっていますが、家の直系の先代すべてを祭ることが伝承され、家長の責務でありました。 一般に農耕民族は、死後の生活を信じ先祖を崇拝する習俗をもっています。農耕は種まき‐発芽‐開花‐結実‐枯死してもまた種から再生しますが、同様に人も誕生し‐成人‐結婚‐子供の出産‐老化‐死となるので永遠に回帰し再生すると信じられました。そして山、森、樹に祖霊がやどり正月や盆には先祖さんが帰ってくるとされています。しかし、この先祖とは別に、家の連合体である同族の共通の先祖を根本先祖と考え、神として祭りました。その根本先祖というのは、家父長的「家」の制度が確立した鎌倉時代の武家社会の中で発生したといわれています。 韓国ではほとんどの家が族譜をもっており祖先の祭祀を行っているといわれていますが、日本では家譜をもっている家は少なく、名字家紋で同族を知るくらいで祖先の祭りも行われなくなっています。家に対する帰属意識や伝承が失われてしまったのです。寺檀関係で寺の知らせる年忌法要中心の先祖まつりとなって、同族の先祖祭りは特定の神仏をまつることになり、その行事も希薄になっています。
VOL.8 2000.12.1
先祖供養
どんな人間にも必ず先祖はいます。しかもさかのぼって数えると無数の先祖の人々がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できません。このように気付いた時、先祖に対する感謝の気持が自然に湧き、それがやがて、尊敬や崇拝の念に変わっていくのです。 人間にとって最も悲しいことは、自分が死ぬことよりも、自分が愛し大切にしてきたものを失うことです。 すべてのものの悟りを目指す仏教の考え方では、単に個人の悟りや、個人の成仏だけではなく慈悲が大切となります。そこから死者が輪廻転生の世界で苦しまないため、生き残ったものが善根功徳を積み、それを死者に回向することによって死者の冥福を達成することができるのです。 日本人は古来、先祖の霊によって守られていることによって幸福な生活を送ることができると考えていました。彼岸とか盆には先祖の霊が帰ってくると信じられており、迎えるために迎え火をもやし仏壇で充分おもてなしをして、再び送り火によってあの世に帰ってもらうという風習がありました。墓まいりも同様で墓へ行って供物・供花・読経・焼香などして供養するのです。死者の霊は一定の期間を経過してこの世の穢れが浄化されてホトケ≠ニなり子孫を守ってくれるのです。
VOL.74 2002.8.7
先祖供養 2
祖先崇拝は「家」にたいする帰属意識のない家庭には祖先に対する供養は心のこもったものにはなりません。自分の先祖を祭る習慣をもたなければ、自分が何時か祭られるようになったとき、子孫がおまつりをしてくれたり、冥福を祈り回向することを期待するのは無理なことです。 会社人間は離職すると非常にストレスがたまるといわれていますが、生活の基本は家庭にあり、家庭人間であることが最も大切な生き方なのです。しかし、家庭を大切にすることを忘れて会社人間になって生活することがあたりまえのようになっています。単身赴任はどうも家庭人の義務を放棄したようなものですが滅私奉公で会社のために自己を犠牲にするのが人間としての正しい生き方だと思って会社のためにつくしたのに何かの理由で退職しなければならなくなると生きる力を失う人も多いのです。 家は親が子に対し、子が親に対して抱く無償の恩愛の情を育む場で、生存の基本であり、人生にとって最も大事なものであります。家族がおたがいの人格を認めあい、尊敬と愛情をもって生きることが大切ですが、そのためにはすぐれた精神性も必要です。 核家族というのは夫婦中心の家族なのですが、どうしても経済的欲求中心の生活になりがちです。家族制度といわれていた家族は、夫婦関係より親子関係を重視し、家の相続を大切にしていましたので封建的家族として否定されました。 さて、平安時代末期に高位官職についていた人物を始祖として祭祀する神社とか寺院を精神的よりどころとして、始祖の子孫中心に親族を集めて形成された「一門」がありました。12世紀になりますと、この「一門」から新たな始祖をもつ親族集団ができますが、これを「家」と称するようになります。この「家」は「嫡系による継承」がされていますが、庶子の分立も制限されませんでしたので、分立した庶子が新たに「家」を創始することも多くみられ、分立した庶子はその家の先祖となりました。しかし、分立した庶子家でも、最初の創始者である始祖=元祖も大切に祭祀されています。 家族の源流をたずね、始祖の精神の伝承と家の永続性を考えた足立氏について調査し、家の永続性を願った生き方をみていきます。 |
足立の元祖をもとめて
丹波 青垣町小倉 黒尾大明神&諏訪大明神 2002.4.28
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VOL.10 2000.12.15
姓 名
一人の人間が誕生してから死亡に至るまで、その人の人格のよりどころとなるのは姓名であります。子供が生まれると親は、その子の名前をつけるのに悩みます。現在でも姓名判断の伝承があり、健康で豊かな一生を送ってほしいと名付けに苦労します。しかし、姓だけは先祖から子孫へと連綿として受け継がれ、子は親の姓以外を選択することはできません。古い家には系図が伝承されていますし、新しい家でも本家を訪ねると先祖がわかり、それぞれの姓氏には歴史的背景があります。 数の多い姓は佐藤、鈴木、高橋、伊藤、渡辺、斎藤、田中、小林、佐々木、山本だといわれていますが、これらの姓は鈴木以外すべて地名から来ているといわれています。名字というのは中世の豪族の土地支配(名田経営)からきています。 日本の人口を推定した研究によりますと、鎌倉時代の人口は690万、江戸初期で1,200万人、江戸中期で3,100万人程度であり、明治10年で3,650万人、20世紀初頭で4,440万人、そして半世紀前で8,389万人、昨年の総人口は1億2,668万人となっています。 さて、苗字のことなら、私の生まれた町は不思議に足立姓が多く、ものごころがついてから周囲の姓は足立ばかりで、同姓同名も多くとまどうことが多くあり、それは現在まで続いています。おそらく500人近くの足立さんと交流していますので「足立です」と電話がかかるともう大変で、どの足立さんか特定するのに苦労しています。それほど丹波氷上郡、とくに青垣町は「足立姓」が多いのです。 足立姓の分布をみますと、東海地方(美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆)岐阜、愛知、静岡県と近畿地方(丹波、京阪神)兵庫県、京都府、大阪府、更に山陰地方(伯耆、出雲)鳥取、島根県、九州地方(豊前、豊後)福岡、大分県に偏在しています。
VOL.11 2000.12.22
青垣町と足立姓
小学校に入学した時、一番不思議だったのはクラスの中に足立姓があまりに多かったことです。70名の同級生のうち28名が足立姓で同姓同名もあり、足立姓の子は地区名と名で呼んでいました。平成10年の青垣町の電話帳によりますと848世帯が足立姓です。 小倉、小和田、中佐治、佐治、遠阪、山垣、市原、稲土、 『青垣町誌』の「部落誌」より足立関係の地区を調べ、その足立姓数をみると次の通りです。 小倉(森)
41 稲土(菅原、西山、日向) 70 この地区のうち山垣に本城を、小倉、小和田、奥塩久、遠阪、徳畑、稲土に出城をおいて、現在の佐治、神楽、遠阪を支配すると共に、この出城に一族を配置していたので、その子孫がそれぞれの地区に足立姓を名のり増加していったのです。 伝承によりますと山垣城には150人ほどの武士がいたといわれていますが、平時は城下の山垣、徳畑、中佐治一円に居住して農耕していたのです。天正の乱で山垣城が落ち、明智光秀に従った武将も滅亡し、それぞれ帰農したとされますが、それぞれの地区に遠政末孫の家系があり、農業をいとなんでいました。
VOL.12 2000.12.29
青垣町の足立史跡
『青垣町誌』に記してある足立氏関連の記述をまとめますと次のようなものです。 佐治 八柱神社 地侍足立氏の霊をまつる 小倉 黒尾大明神 諏訪大明神…古城主足立氏勧請の神社 市原 正平22年(1367)3月16日 小和田 小和田城址
古城主は遠政二男の足立左衛門遠信、三代の居城跡 桧倉 西天目山高源寺 山垣城主足立光基の子遠谿祖雄創立の中峰派本山 大名草 足立氏が但馬、黒川を支配していたころは往還の村として重要 小稗 城山 天正の頃足立又三郎南麓に住む 稲土 八幡神社 足立氏先祖の鎮守八幡 遠阪 不遠山西方寺 足立彦助開基 山垣 山垣城 古城主鎌足公末葉久保田左衛門尉遠政居城とす 中佐治 紫雲山清涼庵 足立氏持庵 口塩久 玉林庵 足立丹後守基家邸跡
VOL.75 2002.8.9
家の永続性
高度経済成長期に日本の永い伝統が崩壊し日本はあらゆる分野で変わってしまいましたが、その中でも最も重要なのが家の永続ということを考えなくなってしまったことです。 結婚式も変わってきました。家と家との婚姻の形式は過去のものとなって、親族の参加しない友人達の会費制で済ませるものが増加していますし、結婚式を省略することも増えています。愛がなければ結婚しないでしょうが、愛の永続は保障できませんので、2人の愛情のみでは離婚が増えるのもやむを得ないことなのです。 日本の婚姻は、平安時代末期まで、夫が夜に妻のもとを訪れて明け方まで共にすごすという「通い婚」で、夜明けになると夫は自分の家へ帰って生活をしていました。 平安末期に藤原氏の摂関政治となり、成功の制度が一般化します。土地を寄進することにより地位や権力を藤原氏より保障されるということですが、これまで共同体の共有財産でありました土地が、有力者の私有財産となり私領と化したのです。10戸ほどの家が集まり70〜80人で構成された血縁集団の共同体が崩れてしまいましたので、成人した女性は男性のもとへ嫁入りするようになりました。 11世紀に関東で先祖伝来の本領を名字の地とし、そこを守るのは武士団の惣領で、先祖より継承した墓地や、一族の祭神の神社や寺院を建立し祭祀するようになりました。惣領は先代の子供のうちすぐれたものが嫡子として選ばれ、武士団の代表となり、その他の一族衆を「家の子」とし、更に非血族者を「郎党」として引きつれ武士団を形成しました。 一人の人の生命は過去にさかのぼると遥か彼方の先祖から親から子、子から孫へと伝承されていますので、永遠の生命とのつながりに到達してしまいます。今、いきている自分は永遠の生命から生かされていると気づくことこそ、人間の尊厳の基本なのです。永遠の生命から生かされている二人の男女が縁により夫婦となって家庭をつくりますので、それぞれの親、祖父母、曽祖父母と先祖につながって生まれてきて結婚したことを考えてみることも大切です。 高度経済成長期に多くの若者が単身で都市に職場を得て核家族をもつようになりました。郷里には老父母や祖父母をおいたまま後継者が転出した家族は悩みが多く、苦労しましたが、近年自分も退職して第2の人生へ再出発しなければならなくなりました。そして長い老後の生き方、先祖のこと、郷里の墓のこと、家の将来のことなどで悩んでいるものが増えています。まさに少子高齢化社会で、家族の崩壊は多くの人びとを生きる希望のないような不幸におとしいれています。 「家」は平安末期の武士たちの社会で成立し、家名や家紋を重んじる生き方を現在まで伝えています。名字から家の永続のために身を賭した先祖達の生き方を知ることができます。 家の永続性を考えるとき、鎌倉幕府成立に深くかかわっていた「足立氏」の存在があります。「足立氏」はあまり知られていない家名であり、権力者の陰で献身的な生き方をする人の多い歴史の表に登場することの少なかった一族であります。 足立氏の群像を調査して「家」の問題を考えていきます。
VOL.14 2001.1.12
足立氏 ふるさとの風土
足立氏の「ふるさと」は坂東で、いまの関東地方を坂東というのは、足柄、碓氷の坂より東ということで、二つの峠によって外から隔てられ、大和朝廷への服属もおくれ、異域とされていまして、坂東の北方は蝦夷の住む「みちのく」であり、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の八国があり、これを坂東八カ国といいます。 足立氏の先祖は、この坂東の地、武蔵国の足立郡に本拠をおく坂東武者、武蔵武士でありました。この地域は律令制が衰えると国家権力の統制がきかなくなり、秩序が崩れて内乱が頻発するなどして独立の気風がありました。足立郡の足立氏を考えるには、平将門の乱(天慶3年、940)ころまでさかのぼらなければなりません。それは「国史大辞典」(吉川弘文館)で平将門にしたがった武蔵武芝の流れが足立氏の先祖だとされていることを調査してみなければならないからです。 平将門(903〜940)は坂東を根拠地として、天慶の乱をおこし、古代貴族国家に対し初めて本格的に武装反乱に立ちあがった武将です。出身は桓武平氏、祖父高望王は上総介、父良将は鎮守府将軍をつとめた家柄でありましたが、下総を基盤に勢力をひろげ、叔父国香を殺して、常陸、上野、下野の国府を攻め落とし、未曾有の戦いを国家に挑んでしまったのです。 安倍貞任(1019〜62)は奥州の豪族で、父頼時とともに陸奥を押領して貴族国家に対抗して国司と争います。朝廷は源頼義(998〜1075)を陸奥守に任命して安倍の反乱を鎮圧しましたが東京都足立区の白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説がのこっています。
VOL.76 2002.8.11
武蔵武芝
足立氏のルーツは武蔵の国にあった足立郡にあります。足立郡は埼玉県南東部と東京都足立区全域にあたる地域で東は古隅田川より埼玉、葛飾両郡に接し、西と南は荒川により大里、横見、比企、入間、新座、豊島郡に接した66ヵ郷で広大な地域です。 足立郡の郡名は「続日本紀」神護景雲元年(767)12月の条に初見があり、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂らが武蔵宿禰の姓を賜わり、不破麻呂が武蔵国造となったという記事がみられます。そして、この郡を治めていたのは、大化改新以来西角井家であります。平将門の乱で活躍した「足立郡司判官代」の武蔵武芝は不破麻呂の後裔であるとされています。 武蔵武芝は治郡の名の高い名郡司で、国衙からも住民の百姓からも信頼されて郡内に良政を施し精勤していました。ところが、武蔵権守(仮の国守)になった興世王(桓武天皇五世の孫)が、正式な着任をまたずに足立郡にはいろうとしましたので、武芝はその様な慣例はないと入部を拒否したのですが、興世王は強引に入部して武芝の舎宅や民家に押入り財物を奪い取り封印してしまいました。 この事件は天慶元年(938)のことですが、この翌年常陸の土豪藤原玄明と国守の紛争に介入した将門は、国府を焼きはらい公然と国家に反抗します。以来関東の諸国に出兵して国守を追い、弟や一族のものを国守に任命して、自分は新皇と称して関東の自立をはかりました。将門に武蔵も支配されましたので、平将門の乱に武芝も渦中にひきずりこまれてしまいます。 西角井家系図によりますと、氷川社務は武芝の娘によって継承されています。この娘は菅原正好が武蔵介として下向してきましたのでその妻となって、その子正範が外祖父にあたる武芝の跡をついで氷川社務司となったことになります。氷川神社の祭祀権が武蔵家から菅原氏に移ったということは足立郡司職も武蔵家から菅原氏に移ったと考えられますので、武蔵武芝の子孫として足立氏が、足立郡司職をついでいたということはなかったことになります。 武蔵菅原氏は、武芝の娘を母として正範が生まれていますが、兵部少丞であり、その子が行範で足立郡司権大夫となり、以後、行基、行永、正見、宗基、正家と代々続いて足立郡司を歴任しています。そして菅原家は正家以降は内倉と称するようになり、氷川神社の祭祀権は菅原氏より内倉家へと移り、足立郡司も、豊島氏、そして足立氏へと移りました。 豊島氏は祖の秩父武常のころから武蔵で勢力をもっていました。足立区の史跡公園になっています白旗塚には、源義家の奥州遠征に豊島武常が附会したとの伝説があり、北区の上中里の平塚神社に居館があったとされ、足立郡を早くから支配していたとされます。
VOL.16 2001.1.26
小野田三郎兼広(兼盛)
丹波青垣町妙法寺に所蔵されています『足立家丹州領地並由緒書』によりますと、足立氏の先祖は、元祖藤原鎌足であり、17代の孫小野田三郎兼広の二男が遠兼であり、右大将源頼朝公家人で祖父より武州足立郡に住し足立藤九郎と名のり、民部凾に任ぜられたとなっています。 更に『尊卑分脈』には山蔭流で下総掾、出羽介国重の男、小野田兼盛が遠兼の父となっています。このように遠兼の父については、兼広、忠兼、兼盛となっていますが、いずれも兼の字があり、小野田三郎の注がありますので同一人物と思えます。 『与野市史』には「平将門の乱後、氷川社務司および足立郡司職は武蔵氏から菅原氏に移っていたことが知られる。下って平安末期には氷川社務司は菅原氏が、足立郡司職は足立氏が継承しており」とありますが、郡司に任用するのは在地の土豪でなければ無理なことだとすると、遠兼以降郡司になるためにはその父、小野田三郎兼盛はすでに足立郡内で有力な土豪であったとするのが自然であります。 さらに金沢正大氏は「兼盛は無官の『小野田三郎』と称するのみ」で、彼が藤原「国重の実子として土着したのか、在地豪族なのか、国重との婚姻関係等で、養子関係に入ったのか、いずれとも判断出来」として足立氏が山蔭流とはいえないとされ、「小野田系」の嫡系とされています。 関東には11世紀の源頼義、義家以来源家との主従関係をもつ在地武士が多かったのですが、武蔵の在地武士が保元・平治の乱で主流をしめ他を圧倒しており、その中には頼義、義家時代からの譜代の家人も多くあったことから、遠元の祖父兼盛は源家譜代の有力武士であったとされています。
VOL.17 2001.2.2
足立遠兼(小野田六郎)
足立家の先祖は一般に足立遠元とされていますが、妙法寺文書では「遠兼右大将源頼朝公家人也自祖父住武州足立郡仇名足立藤九郎任民部丞」とあります。足立藤九郎については後に記しますが、先にみた様に祖父の代以前より足立郡に住居をもっていた地方豪族であり、国衙行政につとめた従六位くらいの人物であったと考えられます。「曽根本足立家代々由来」には「足立元祖民部丞藤原遠兼」という表現もされており、足立遠兼を足立家の先祖とする記述もあります。 「丹州足立氏系図」には、遠兼について「武蔵国足立郡住」とあり、遠元について「足立と号す。母は豊島平{伏泰家女、外祖父泰家、足立郡地頭職を譲与す、依て一円知行」と注記されています。これについて安田元久氏が「泰家が実際に足立郡地頭職を有していたというのは、はなはだ疑わしい。それ以上に、彼の時代に『地頭職』という名称が行われたとも考えられない。」とされているようにこの系図も後世の創作であります。 しかし、康家の娘が足立遠兼の妻であったこと、そして遠元の母であったことは疑問の余地はありません。また足立区の史跡公園になった白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説があり、奥州へ義家を案内した豊嶋氏の居館の跡が平塚神社になったという記述もあります。 「尊卑分脈」について金沢正大氏の安達藤九郎盛長についての考究によりますと、「基春」が「安達」とあり、「延慶本平家物語」に安達盛長が「足立藤九郎盛長」となっていて同訓異字である。又「兼盛」と「遠兼」、「盛長」は通字性により親子関係で、これが兄弟となると遠元と盛長は甥と叔父となる。しかし、この系図では盛長が小野田藤九郎とされ遠兼が右大将家家人安達藤九郎民部丞となっていることに疑問をもたれています。 ところが、盛長は正治2年(1200)に66歳で死去していますので、その生年は保延元年(1135)となり、遠兼の生年は不明ですが、息子の遠元が平治の乱(1159)に参戦し右馬允に任官していること、遠元の娘が仁安元年(1168)生まれの知光、治承3年(1179)生まれの光俊の母であることから推定すると盛長より遠兼が年長で兄となり「尊卑分脈」の序列は逆であり傍注も入れかわることになりますから、遠兼が安達(足立)六郎となり、盛長は右大将家家人の安達藤九郎盛長となるとされています。 鴻巣市糖田の放光寺には同市の文化財、鎌倉期の等身大の坐像、足立藤九郎盛長像があり、同所に盛長館址がありますので、安達藤九郎盛長は足立六郎遠兼の弟とすべきであります。盛長は文治5年(1189)に安達郡を賜っていますので、それから安達姓を使用したとみるべきで、すでに55歳になっていましたし、それは遠元が治承4年(1180)10月8日に頼朝より足立郡の領掌権を安堵されてからかなり後のことです。 以上のことから妙法寺本の「遠兼右大将源頼朝公家人也」とありますが、遠兼は戦乱の続く東国にあって、小野田氏の嫡系として源義家以来の源氏家人として足立郡内に勢力をもち姻族を通じて武蔵の有力武士となり、一族の発展する基礎をつくり、「足立神社」を中心に敬神崇仏を大切に一族の結束をかためた人物でありました。 |
鎌倉時代の足立氏
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VOL.18 2001.2.9
足立遠元
足立氏は平安末期から歴史の舞台に登場するようになり、源頼朝の鎌倉幕府創立に主導的な役割をはたしています。武勇に優れ、忠義、礼節、信義、質実剛健を重んじ敬神崇仏の念厚い「文武両道の勇士」であり「武士の鑑」でもあるとされています。 遠元の父は小野田三郎兼広の長男遠兼で、祖父より武蔵足立郡に住んでいました。またの名を小野田六郎といい民部丞に任ぜられており、藤原氏を名のる足立郡領で、その弟に安達家の祖といわれています足立藤九郎盛長がいます。 遠元の生年、没年とも正確に記したものはありません。足立四郎左衛門尉と号していましたが、これは建久元年(1190)11月頼朝の推挙により任ぜられてからのことであり、それまでは平治の乱(1159)で大活躍をして右馬允に任ぜられていることから右馬允遠元と記されています。右馬允として任官していますので30歳頃と考えますと、1120年代の生まれということになります。 足立遠元の遺跡は大宮市、桶川市に残されています。「新編武蔵風土記稿」に、大宮市植田谷の旧家勘太夫屋敷について「この勘太夫屋敷は先祖が在城した城址といわれるが、今も西方に堀をめぐらし、北の方には大沼があって、すこぶる要害の地であることは確かで、ずっと古いことはともかくとして、中世には相当の人が居住していたことは疑いない所である。この家にはいまでも国俊の刀、及び先祖が用いたという馬の鞍、長刀、鎗、刀、脇差等が沢山ある」と書かれています。 次に桶川市の足立館について「足立右馬允遠元館跡」と「三ツ木城址」があります。 足立右馬允や安達藤九郎盛長の居館とされているものに「三ツ木城址」が桶川市大字川田谷字城山にあります。
VOL.19 2001.2.16
足立遠元 2
足立郡の豪族として、また郡司として最も有名なのが遠元ですが、郡衙は大宮市におかれ、現在の埼玉県北足立郡と東京都足立区を含む広大な地域を領有していました。藤原中納言山蔭の子孫が東国に下って土着し、遠兼の時に足立郡に居住して足立郡領となったともいわれています。 当時の武士が平生居住していた所が館であり、その地域の有力な私営田経営者であったり、荘園の荘司として荘園管理をしていますので広大な館をもち、家の子、郎党を従え、労働力としての下人、所従を使役して館内に住まわせていたのです。その上、治安が悪かったので、常に外敵の侵入を防ぐという防衛策を講じ、自衛していました。館の周囲には堀をめぐらし、その内側には土塁を設けていたのです。 保元3年(1158)8月、後白河天皇は親政わずか2年で二条天皇に譲位し院政を再開しますが、これにより陰湿な動きがでてきました。後白河院の信任で実権をもった信西と、それと結んで頭角をあらわした平清盛に対しまして、出世の道を封じられた藤原信頼と平氏に先をこされた源義朝が信西打倒の策謀をすすめます。 平治元年(1159)12月清盛が嫡男重盛とともに熊野詣に出た隙をついて9日の夜、義朝は院御所三条烏丸殿を包囲して後白河院を内裏の一本御書所に幽閉して院御所に放火、同時に姉小路西洞院の信西屋敷を焼き一族を追放、追いつめられた信西は自害するというクーデターを起こしました。 ところが清盛が入京しますと藤原信頼を見放した公卿たちが、天皇を六波羅の清盛邸に後白河法皇を仁和寺へ脱出させます。天皇、上皇の不在となった内裏で信頼、義朝は完全に政治的敗北となり、あとは源氏の意地をかけた戦闘だけとなり、せっかく遠元ら武蔵武士の勇戦奮闘も役に立たず、信頼、義朝の首級は東獄の門の樹に梟される結果となりました。 平治の乱により清盛は一門と共に栄進し、7年後には太政大臣に就任しました。その政治は「平家にあらざらむ人は皆人非人」という状況で平氏敵対者を徹底して抑圧する弾圧政治が展開されます。武蔵も平知盛が国司となりました。そして、12歳の頼朝は清盛の継母の池禅尼に助けられ、伊豆蛭ヶ小島に流され、平家に属した伊東祐親や北条時政の監視下に20年をすごすことになりました。 伊豆流人時代の頼朝を扶助したのは武蔵比企郡少領の比企掃部允の妻で頼朝の乳母、比企尼で、常に頼朝を庇って20年間仕送りをして保護してきました。 さらに足立遠元の姻戚を見ますと娘が畠山重忠と結婚しており畠山小次郎重秀が寿永2年に生まれています。遠元のもう一人の娘は藤原光能と結婚し、知光が仁安元年(1168)に生まれています。
VOL.20 2001.2.23
足立遠元 3
こうした東国武士間の身内関係、比企、足立氏とのつながりは頼朝の幕府成立に重要な役割をすることになります。足立遠元の娘が後白河院近臣の藤原光能の妻であり、その縁には以仁王もつながっていましたので、後白河院政の中枢に直結していたのです。 足立遠元もまた、平治の乱後単に逃げ帰った義朝の家人としてかくれていたわけではなく、常に京洛貴顕との交流で政治の動向をみて源氏再興の時をさぐっていたので、頼朝の文武両道師範たりえたのです。 武蔵国は1160(永暦元)年に平知盛が国守となって以来、平氏が一貫して国勢を掌握していました。それを足立遠元の参陣と共に1180(治承4)年10月に畠山重忠、河越重頼、江戸重長の帰参により反平氏軍へと武蔵の豪族を決定的に転向させます。ここで10月5日国衙に入城し武蔵国を簒奪、秩父一党の長老重長を総検杖職に据えて新体制を樹立します。 頼朝は平家討伐軍をおこすためには、関東諸豪族の協力が必要でありました。当時の諸豪族の権利を安堵して国衙や郡衙機構を利用して武家政権樹立を考えていました。そして治承4年(1180)に侍所をおき、元暦元年(1184)には公文所を設置して武家政治の機構を整備しました。 遠元は元暦元年の志水冠者義高(木曽義仲の嫡子)残党の討伐、文治5年(1189)の藤原泰衡追討の際にも従軍し軍功をたてています。建久元年(1190)に頼朝が上洛した時、布衣侍十二人の内に選ばれて参院の供奉をしており、遠元は頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられております。頼朝の遠元に対する信頼は厚いもので、頼朝の姉の一条能保夫妻が鎌倉に来たときは鎌倉の遠元邸に宿泊していますし、頼朝夫妻も遠元邸で迎えているほどです。 頼朝の死後、頼家が恣意的な傾向が強かったので、御家人の不満も高まってきました。そこで北条時政や政子の意見がいれられ、頼家が訴訟を親裁することができなくなり、北条時政など御家人と将軍側近の13人の合議制がとられるようになりますが、このうちの一人に足立遠元も選ばれ、依然として幕政の重鎮であったのです。 「吾妻鏡」によりますと、足立遠元は承元元年(1207)ごろまで活躍しています。「丹波志」に「足立と号し、足立郡地頭職一円之を領す。頼朝公実朝公御両代武勇の師範たり」法名天福寺殿霊覚樹大居士とあります。
VOL.21 2001.3.2
源 頼朝 平治元年(1159)頼朝の父、源義朝は源氏勢力の巻き返しを図りましたが、平清盛に敗れ源氏の衰退を決定的にしてしまいました。このころはどんな社会であったのでしょうか。 前九年の役の始まった1051年というのは、その当時の人びとが「末法の時代に入った」と思いこんだ時期です。末法というのは釈迦が入滅されてより正法、像法を経て末法となるということで、正法の時は教(釈迦の教え)、行(正しい教えの実践)、証(実践の結果得られるさとり)の三つが具わった時代であるが、像法になると教・行しかなく、証が得られない時代で、末法になると教しかない時代となり、末法は万年続くという思想です。 頼朝の代からさかのぼること四代で八幡太郎義家に至りますが、河内源氏の嫡流でその出身は大阪です。義家は7歳の時石清水八幡宮で元服し、八幡太郎を名のりますが、これから源氏は代々八幡神を氏神としました。このことから八幡社は全国に広まっていきます。義家は13歳で初陣ですが、東北で謀叛を起こした安倍一族との戦いでこれが前九年の役です。 さて、藤原氏が全盛を極められたのは天皇の外戚という地位を利用して摂関政治を行ったからですが、白河天皇は摂関政治では恵まれない受領たちに支持されて院政を始めます。白河天皇は後三条天皇の遺志を継ぎ、上皇になってもその御所で政治を行います。 保元の乱は崇徳上皇側に藤原頼長、源為義らがつき、後白河天皇側に源義朝、平清盛がつき、戦は一夜で決まり、上皇は讃岐へ流され、頼長、為義は殺されます。しかし、この乱後、清盛が勢力をもちましたので源義朝、藤原信頼は、平清盛、藤原通憲(信西)と対立してしまいます。 13歳で平治の乱に父に従って初陣をつとめた頼朝も捕えられましたが、清盛の父忠盛の後妻池の禅尼の助命で助かり伊豆へ配流されます。 頼朝はもっぱら読経三昧の生活で法華経を読誦しています。箱根権現の住僧に師事して仏教信仰に励む毎日でありましたが以仁王と姻戚でむすばれていた足立遠元により都の情報は正確につかんでいたようです。
VOL.22 2001.3.9
源 頼朝 2
頼朝の身を遠くから心配してくれたのが乳母の比企尼で、この尼の長女の婿が安達盛長であり、常に頼朝のそばに仕えていましたし、平治の乱で所領を失った佐々木四兄弟もおり、また頼朝の生母の実家は熱田大神宮といわれ、ここからも援助を受けていました。 当時の武士は国府の役人として、知行国主の代官の目代の下で働いていましたが、そのうちに国府の有力者となり、治安が悪いとその地位は向上しています。 治承4年(1180)、後白河法皇の皇子以仁王は源頼政とともに平氏打倒の挙兵を4月に起こします。以仁王は第二皇子で親王でありましたが母は藤原成子で摂関家でなかったので親王宣下を得られず王にとどまり、二条、高倉と天皇になり、高倉天皇の子安徳天皇が即位すると、以仁王はこの即位を認めず新王朝を宣言しました。 頼朝の叔父の親家行家が令旨を届けに来ますが、頼朝はこれを勅令として奉じます。清盛の源氏追討計画も頼朝に届きましたが、8月17日夜ついに目代山木判官を奇襲して伊豆国府の実権を押えました。 挙兵から平家滅亡までの4年半、頼朝は鎌倉を動かず、専ら東国支配を強化し、義経追討をきっかけに朝廷や、貴族の支配にも介入して全国的な軍事・政治の権限を強化していきました。建久3年(1192)後白河法皇の崩御により、征夷大将軍となって「天下の政道」を樹立します。 安房国東条郷に東条御厨がおかれていますが、これは一の谷合戦で再挙することができた記念に伊勢外宮へ寄進した神領です。「天照大神の御くりや、右大将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」と日蓮聖人はこの安房御厨のあるところに生まれたことを果報といわれております。 日蓮聖人は、頼朝が平家を討って亡父の願いをはたし征夷大将軍になったことを「法華経の利生」であるとされ「成親父の御くびを太政入道に切られてあさましというばかりしに、いかなる神仏にか申すべきとおもいしにいづ山の妙法尼より法華経をよみつたえ、千部と申せし時、たかおのもんがく房、おやのくびをもて来りてみせたりし、かたきを打つのみならず、日本国の武士の大将を給いてあり、これひとえに法華経の御利生なり」と「南条殿御返事」に記されています。 更に、頼朝が賢人なのは法華経を読誦し、法華経のご利生をたえず心に刻みつけていたことにあるとされ「現世の祈祷は兵衛佐殿の法華経を読誦する現証なり」とされています。そして謗法の人は天から守護されることはない。頼朝は不妄語の人であり、不妄語の釈迦仏、法華経の化身である八幡大菩薩を信じ、法華経を読誦したので勝利したといわれています。
VOL.23 2001.3.16
比企尼の一族
源義朝が鎌倉にいましたころ、比企掃部允は義朝の家人となっていたようで、やがて義朝が武家の棟梁として都で活躍するようになりますと、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝の側近として奉公することになります。側近の中でも最も信頼されていたようで、久安3年(1147)に頼朝が生まれますと妻の比企局がその乳母に選ばれています。武家社会では、子女が生まれると家人の中で最も信頼できる側近の妻に乳母を命じています。 比企局には3人の娘がありました。長女は二条天皇に仕えて丹後の内侍とよばれていましたが、すぐれた歌人として知られており、惟宗広言に嫁ぎ島津家の先祖として有名な島津忠久を生んでいます。この女性は平治の乱後比企掃部允、比企局に従って武蔵に下り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚していますが、盛長との間に生まれた女子は源範頼の室となりました。また、比企局の二女は河越重頼の妻となり、その娘は源義経の妻となっています。三女は伊東祐清に嫁いでいましたが伊東祐清が討たれてから、平賀義信と再婚して朝雅を生んでいます。 平治の乱で頼朝が伊豆に流されると比企掃部允は京都を去って武蔵国比企郡中山郷に住んで頼朝の扶助につとめます。そして安達盛長、河越重頼、伊東祐清の3人の娘婿はいずれも頼朝の側近として配流時代の頼朝に仕えています。比企掃部允は比企郡が国衙領でありましたから請所となって受領の支配を受けていた比企郡の小領主であったといわれており、猶子となっていたのが比企藤四郎能員です。比企尼のことについては、「吾妻鏡」に「武蔵国比企郡を以って請所となし、夫掃部允と相具して下向し、治承四年の秋に至るまで廿年間、御世途を訪ひたてまつる」とあります。 鎌倉に幕府をひらいた頼朝は比企尼(夫は逝去していた)に酬いるため鎌倉に住まわせますが、その地が比企谷で、その邸宅を比企谷殿とよんでいました。また比企能員は御家人として側近に命じ、比企、入間、高麗の三郡を所領にして遇しております。比企能員も有力な御家人で、木曽義仲の残党が甲斐信濃で叛逆を企てたのを討伐したり、平氏追討軍に加わって九州遠征をしたり、奥州藤原氏征討のときには北陸道の大将軍として活躍しております。 寿永2年(1182)8月に北条政子が嫡男頼家を出産しますが、その産所となったのが比企谷殿であり、乳母になったのが比企能員の妻でありましたので、頼朝、頼家との絆は強固なもので、頼朝夫妻もしばしば比企谷殿を訪れております。比企の娘、姫前は北条義時の妻となり、能員の長女若狭局は頼家に愛され建久9年には一幡が生まれており頼家と比企一族の関係が強まり、北条氏と対立が深まりました。 比企能員は北条氏に謀殺されてしまいますが、能員の末子能本は京都に落ちのびて学問で身をたてます。のちに姉の若狭局の長女竹の御所(四代将軍藤原頼経の室)のはからいで鎌倉に帰って来ますが、この時日蓮聖人に逢い「立正安国論」の校訂にあたって居り日蓮聖人に深く帰依いたしました。そして比企大学三郎能本は日蓮聖人に自邸を捧げて法華弘道の根本道場を創建しますが、これが日蓮門下最初の寺です。 寺号を長興山妙本寺といいますが、父の比企能員の法号を「長興」といい、母の比企尼の法号が「妙本」であり、いづれも日蓮聖人より授かったもので、これから山号・寺号がうまれています。この寺へ日蓮聖人は佐渡から帰還されて初めて立ち寄られたのですが、「三大秘法最初転法輪道場」とされています。山の谷間にある境内は杉木立にかこまれ閑静な寺院で、宋の陳和卿の作の釈迦如来像、日蓮聖人の大曼荼羅が残されています。この曼荼羅は日蓮聖人の御入滅の時に枕頭に掲げられたという大型の本尊で日蓮宗の宗定本尊とされているものです。 大学三郎は文永8年の竜の口の法難の時には命を投げだして聖人を救うことに奔走しました。御家人の代表でありました安達泰盛とは書を通じての友人でありました。このことを日蓮聖人は「大学三郎御書」に「城殿と大学殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御手をこのまるる人也」と書かれています。
VOL.24 2001.3.23
足立藤九郎盛長
藤九郎盛長は頼朝の乳母比企局の娘、丹後の内侍と結婚して、頼朝が配流生活をしていた時から近侍として身のまわりを世話しておりました。 「新編相模国風土記稿」には次のように記されています。 藤九郎盛長は頼朝が挙兵する時、諸国の武将を歴訪して覇業成就のため武士団の参入を説いて廻ったということです。頼朝が挙兵した治承4年(1180)8月17日に伊豆の山木判官平兼隆を討たんとしたとき、三島神社の神事奉幣使として参向していますし、富士川の戦でも活躍しました。 盛長は頼朝の信任が厚く、奥州征討に参戦したり、京都への使者をつとめたり、建久5年(1194)12月には鶴岡八幡宮の奉行人となって八幡宮造営を行っています。この時には鎌倉に館をもっておりました。その館は鎌倉の字長谷の甘縄神社の前にありましたが、頼朝、政子夫妻をはじめ歴代の将軍がたびたび訪れています。 この様に盛長の館には実朝、頼経と足をはこんでおり将軍との絆の強さをものがたっています。しかし、正治元年(1199)頼朝が逝去しますと頼家の代となり、その頼家が、盛長の子景盛の妾女を奪うというような事もあり、藤九郎盛長は出家して蓮西と号しました。 盛長の長子は安達景盛で母は丹後の内侍であります。父と共に頼朝につかえていました。三代将軍実朝のとき、右衛門尉に任じられ建保6年(1218)出羽介となり、秋田城を管し秋田城介となります。これより秋田城介は安達氏の世襲の職となります。 弘安のころには従来北条一門に限られていた陸奥守に任じられたりしていますが、この権威は景盛以来執権一門と血縁関係を累ねてきたことによります。蒙古襲来の時、泰盛は子の盛宗を守護代として九州に行かせ、自分は御恩奉行として鎌倉にあり、北条時宗を助けて蒙古対策の中心的存在として活躍しています。
VOL.25 2001.3.30
頼家と実朝
足立遠元は平治の乱後故郷の足立郡に帰っていましたが、都との交流は続いていました。幕府創設以来、行政事務は堪能であり、都の朝廷とも接触をもち政治力を発揮していましたし、武術にもすぐれ頼朝に最も信頼されていた宿老でありましたが、晩年は心痛多く苦労がたえませんでした。 頼朝が伊豆に流されていた時に北条政子との間にできた大姫がいます。大姫は木曽義仲の子の義高と結婚しましたが、義仲を滅ぼしたときに義高も殺されましたので、以来大姫は悲嘆の毎日を送っていました。 頼朝のあとをついだのは武芸の達人といわれた頼家で18才で二代目将軍となりました。しかし、朝廷には土御門天皇の外戚源通親がいますし、鎌倉には母政子と北条時政が幕府の支配を拡大して、将軍就任3ヶ月目には重要な職権でありました訴訟決裁権を停止されてしまいました。 幕府権力を独占しようとする北条氏にとって有力な御家人は邪魔でしたから頼朝時代の側近として勢力をもったものを粛清しました。その最初が梶原景時で頼朝の死の翌年1月に清水市で一族と共に殺され、更に頼朝の弟で生き残っていた阿野全成を謀反の罪で殺害します。 頼家の弟実朝は12才で三代目将軍になりましたが兄頼家の様子をみていましたので、政子や時政に逆らうことなく、歌の道に逃避した日々を送ります。
VOL.26 2001.4.6
足立遠元の子孫
足立遠元が「吾妻鏡」から姿を消すのは建永2年(1207)3月の北の政所の中庭で北条時房らと「闘鶏」の会に出席したことで、これを最後に幕府の行事から退隠しています。鎌倉幕府の中枢にあって活躍した生涯ですが生年も没年も終えんの地も一切明らかではありません。 足立遠元には6男3女がありました。嫡子は八郎左衛門元春で、左衛門尉となって足立家を継いでいます。元重は淵江田、遠景は安須吉、遠村は河田谷、遠継は平柳と号して庶子家を創立しています。 遠元の3人の娘についてですが、前にみたように後白河院の近臣で蔵人頭でありました藤原光能に嫁ぎ、知光、光俊の母となったものと、畠山重忠に嫁して小次郎重秀の母となった女性、更に北条時政に嫁して時房、時直を生んだ女性がありました。都の公家、有力な御家人、そして北条氏の外戚でもあったのです。 足立遠元の嫡子八郎元春は「吾妻鏡」によりますと、建仁3年10月将軍実朝の御弓始めの射手に禄を与える役をしてから、承久元年の将軍藤原頼経の供奉人をつとめるまでの間鶴岡八幡宮参詣の供奉人をつとめたり、幕府の使者として都へ上ったりしています。 ところが弘安8年(1285)11月一族の安達泰盛と得宗家との抗争で霜月騒動が起こり、泰盛に味方した足立直元は敗北して自害してしまいます。この事件により足立一族も幕府内の地位と本領足立郡は北条得宗によって没収されてしまいました。
VOL.77 2002.8.14
鎌倉時代と宗教
鎌倉時代は武士層が古代王朝の権威を否定し、新しい社会を創造してきましたが、幕府の権力の掌握をめぐって、内部での粛清が多く執拗に陰謀や謀殺をくりかえし陰惨な時代でもありました。そうした中で新しい信仰が生まれて、親鸞、道元、日蓮、一遍などがあらわれて来ます。 法華経を最も尊重して最澄の意を伝えようとしたのは道元と日蓮ですが、道元が禅を重視したのに対し、日蓮は法華経の行者として法華信仰に生きました。また常行堂中心の阿弥陀信仰は、恵心僧都源信が浄土教を説きます。世は末法の世で天変地異が相ついで起こり、流行病がはやり戦乱の続く世相でありましたので、この世では救われない人々が、せめて来世は安楽な世界へ生まれたいと願ったのです。 寺社奉行をつとめていた足立遠元も鎌倉の阿弥陀堂奉行でありました。 また平安末期より、人が救いを求めるとその声を聞いて助けに来てくれる観音信仰がさかんになります。観世音菩薩は南の補陀落山に観音浄土があるとされ、鎌倉にも南に補陀落寺があり、長谷観音とともに信仰を集めました。この頃より三十三観音霊場めぐりが流行して畿内と、坂東・秩父でもその霊場ができています。 頼朝は終生法華経を信仰して、毎日の読誦をかかさず書写もしていたといわれ、「山王(叡山)の霊威を蔑如してはならない」として天台法華を信仰、また俊乗房重源の東大寺再建にも援助しました。そして法華経の化身と信じられていた八幡大菩薩を信仰し参詣していました。頼朝に供奉していた北条義時や足立遠元も同様の信仰をしていたと思われます。 時頼は得宗の地位を強めましたが、道元禅師を招き為政者の心がまえを聞いていますし、後に宋僧蘭渓道隆に師事し建長寺を創建して道隆を開山としましたし、自らも出家して最明寺入道道崇と号し、衣・袈裟を着していました。37才で没しますが座禅したままの臨終といわれています。 【鎌倉期の仏教】 〔宗派〕
〔開祖〕 〔本尊〕 〔経典〕
VOL.28 2001.4.20
北条氏と足立の関係
北条氏は静岡県田方郡韮山町の出身で伊豆地方の一土豪でありました。14歳の頼朝が伊豆に配流となり、この田方郡の蛭ヶ小島を配所としていましたので、平家は監視役として伊豆荘の伊東祐親と、北条時政を選任していました。 頼朝はここで父の義朝や、兄たちの菩提を弔うための読経三昧の生活をしていたのです。都育ちの若者のことですから女性との交渉もあったようで、伊東祐親が大番役で上洛中に祐親の娘八重姫と交際をはじめ、千鶴御前という男子が生まれました。頼朝にすれば伊東一族と縁つづきとなり、流人の境遇も改善されることを期待したのかも知れません。 しかし、六波羅の大番から帰ってきた祐親は事態の重大さに気づき、孫の千鶴御前を簀巻きにし松河という川奥の淵に投げ込んで殺害してしまい、娘も江間郷の小四郎のもとへ嫁がせてしまいました。 北条でも迷惑だったのですが、当主の時政が京都の大番をつとめるため上洛したあとで、惣領の三郎宗時が頼朝を助けます。これは治承2年(1178)のことですが、北条館の中で頼朝と時政の娘政子との交際が始まるのです。 おりから以仁王の令旨がもたらされましたので頼朝は平兼隆の報復を恐れ、北条氏をたよりに山木判官を襲撃し、これは成功しますが、石橋山の合戦では平氏方に敗れ、逃走したのです。伊豆の小豪族にすぎない北条氏は政子によって強大な権力をもつことになりました。 幕府創設の功労者足立遠元には3人の娘がありましたが、その中の1人は北条時政の三男時房(政子の弟)に嫁ぎ、北条氏の外戚となって、その地位を安定させます。時房は兄の義時や姉の政子と共に幕政に参画しますが特に承久の乱では甥の泰時(義時の子)と共に東海道大将軍として京都に攻めこみ、乱後六波羅探題となっていますし、更に連署となって幕政を動かすようになりました。 遠元のもう1人の娘は畠山重忠に嫁して、小次郎重秀の母となりますが、重忠は後に北条時政の娘と結婚しますので、北条義時とは義兄弟でもありました。 足立遠元は武蔵国の御家人の代表として、御家人間の対立が激化して、比企、畠山、小山田等が相ついで滅亡するなかで、北条執権体制をささえ、幕府の地盤をかためる重要な役割をはたしていました。
VOL.29 2001.4.27
足立藤九郎盛長の子孫
足立遠元の叔父の藤九郎盛長は伊豆流人時代の頼朝に近侍していました鎌倉幕府創設のときの功臣であります。治承4年10月に頼朝が御家人に勲功を行った時、相模、武蔵、下総等の所領が安堵されていますが、陸奥の安達郡にも所領を与えられて、これ以来安達を名のるようになりました。 北条時氏が六波羅探題北方に就任しますと松下禅尼も、夫と共に上洛して都で探題夫人として時氏を助け教養を身につけたといわれています。都での任期を了えて鎌倉に帰ってきてからも嫁として執権泰時にも孝養をつくす賢婦人だったのです。 仁治3年(1242)6月に三代執権泰時が逝去しますが、泰時の遺言により松下禅尼の嫡男経時が四代執権に迎えられます。母の松下禅尼、伯父の安達義景の期待通り19才で経時は執権となりましたが、わずか4年で病没してしまいます。 二代執権義時の孫にあたる名越光時は五代目の執権をねらっていましたので、時頼は光時を伊豆に流し、光時に従っていた名越方の評定家5人を罷免し、果敢に策謀を制圧しました。更に時頼は高野山に篭っていた外祖父の安達景盛を鎌倉に呼び、三浦泰村一族を襲わせて滅亡させました。 この様に足立一族の北条得宗家との婚姻関係は、安達泰盛時代に得宗家と一体のようになりました。安達泰盛は、弘安の蒙古襲来の際御恩奉行となりましたが、戦功の恩賞を独裁で決していましたので、執権家の家宰平頼綱の反感をかい、弘安8年(1285)11月突如幕兵に襲われて安達(足立)一族は滅亡しました。足立遠元、盛長以来の足立郡の所領まですべて北条氏に没収されてしまいました。
VOL.30 2001.5.4
もののふの道
足立遠元は源頼朝の文武両道の師範であったとする著述が多くあります。八幡太郎義家以来の「もののふの道」を勤めていた京都の貴権と交流のあった人物とされています。 第一に武士は生命にめめしく執着しないということです。自分の身や妻子のことを思っていては武士はつとまらない。わが身を安全にして、敵を殺そうと思うな、わが身をなきものにして敵を殺せというのが兵の道でありました。「葉隠」のいう「死ぬこと」に武士の道があったのです。 公家から武家へと大きな変革のあった鎌倉時代は、武勇のすぐれた者が生きのこり、栄える社会となり、官位や権勢といった現世的名誉に対して恬淡でなければならず、むしろ「死の後の名こそ惜けれ」というように永遠の生命、死後の名に執着する生き方が尊ばれるようになります。ここに公家の生き方と根本的に違いのある武家の世界が現出します。 最初は頼朝が幕府を開いてから頼家、実朝と三代にわたる源家将軍の時代で、後白河院や、後鳥羽院が都で実力をもっていた伝統的な王朝文化の栄えた時期であり、鎌倉でも都の文化にあこがれ豊麗な公家文化を輸入しようとした時期で、都で公家達と交流を深めた足立遠元が武士達のあこがれでもあった約35年間続いた時代です。 次が承久の乱で勝利して天下に武門の威力をみせつけた北条泰時の時代です。3上皇を遠流し、3,000余の荘園を得て幕府権力は強力なものとなります。足立氏では遠元の孫が、吾妻鏡にも登場してきます遠親、基氏、遠政の時代であり安達氏が活躍するようになります。 第三期は北条氏の隆盛時代で、北条時頼、時宗父子が執権として鎌倉の武威を天下に振るった約40年間で、安達泰盛が御家人の代表として最も権勢をもっており、蒙古襲来の際も御恩奉行となっています。執権の権威は強大となり、皇統の継承についても干渉します。皇統を大覚寺と持明院の両統に分立させて、朝廷や公家の権威を失墜させました。 第四期は時宗の死によって14歳で執権となった貞時から、師時、高時とつづく40年間で、安達泰盛が殺され御家人勢力を一掃されてしまい、足立一族も滅亡してしまう時期で、それ以後幕府は滅亡していきます。 以上の四期に区分して足立氏の動向を次にみていきます。
VOL.31 2001.5.11
源氏将軍たちの信仰
頼朝が鎌倉に入府したのは治承4年(1180)ですが、鎌倉の都市建設をするのに、直ちに由比若宮を遷座して鶴岡八幡宮を建立し、それへの参道として若宮大路をつくりました。これは都の大内裏と朱雀大路をなぞったもので、源氏の氏神の八幡宮を大内裏、つまり皇室の権威に変えて、人々に忠誠を誓わせたのです。 八幡宮が源氏の氏神となったのは源頼信の時です。もともと八幡信仰は豊前国宇佐の八幡宮に始まった古代からの信仰でありましたが、清和天皇が平安京鎮守として石清水八幡宮を勧請されましたことから、清和天皇を祖とする源氏の氏神となったのです。 義家が元服する時、石清水社でその儀式をとり行ったので八幡太郎義家とよばれていましたが、頼朝も幕府の鎮守として御家人にも参拝させ武士の守神としていました。八幡神は穢を排除する破邪顕正の神であり「弓矢八幡」とよばれ御家人の精神的団結をはかるものとして、全国各地に八幡宮が勧請されました。 頼朝は流人の生活を経験しましたので、関東の御家人以外は信用できなかったようですが、その御家人には貴人に対する絶対的服従を要求して自己の貴種を主張しますが、院に対しては武力を背景に独立政権を認めさせようとしました。 寺の造営についても院政に似ています。最初に建立したのが、阿弥陀山勝長寿院で、大御堂ヶ谷に、父の義朝を供養するため文治元年(1185)9月に建立したのです。ここには義朝の首を埋葬し、阿弥陀如来像を本尊として大御堂を建立、壁面には浄土瑞相と、二十五菩薩が藤原為久の筆で描かれています。この寺は御家人が宿直して日夜警護し、歴代の将軍が参詣していました。 また奥州藤原氏を滅亡させましたが、中尊寺大堂の立派さに驚いた頼朝は、同格のものを建立し、義経や藤原泰衡の霊を慰める寺として永福寺を建てています。
VOL.32 2001.5.18
北条泰時
足立遠元が高齢となり幕政から遠ざかるころに北条義時が執権となって幕政を掌握しました。北条義時は3人の上皇、2人の皇子を流刑に処して、天皇を廃位していますし、源頼家とその2人の子、また頼朝の子1人、弟1人、甥1人を殺させています。御家人では梶原景時と和田義盛を殺害、その一族を滅亡させています。 こんな義時の暗黒政治を都から見ていたのが後鳥羽上皇なのです。 そして実朝が28歳で惨殺されてから、次の将軍に皇子を求めてきたのを拒絶し、義時追討の院宣を発しました。承久の乱が起きますと、足立遠元の娘の夫であります北条時房が甥の泰時と共に東海道の大将軍となり京都へ攻め入り、六波羅探題として京都を支配しました。また時房は承久の乱の功により伊勢守護に任ぜられ、同国内16ヵ所を与えられ、のちに連署となっています。 さて北条義時なきあと執権となったのが北条泰時で補佐役の連署となったのが時房です。これより幕府は政治を刷新し、評定衆を置き幕政を評議させるようになり、「御成敗式目」を制定し公平な裁判基準をつくったり、宗教統制もしていますし、鎌倉の都市計画や京都の治安維持につとめます。 北条泰時について「神皇正統記」は「泰時は心正しく、政治もまっすぐで、人を育成し、公家を大切にしたので天下は静まった」としており、徳政を第一とし、法制を確立した最もよい政治を行ったとされています。泰時が確立した法制のままに政治が行われたので北条政権が続いたと評しています。 これに対し泰時は「わが国には伊勢太神宮があるが、茅ぶきの小社にすぎないが、その恩恵は全国に満ちている。功徳の大小で神仏が尊いのではなく、志が道にかなっていれば結構なのだ、功徳があるから伽藍を建てるというのはまちがいで、世を治め一族を育成するのが現世安穏であり、悪ければ祈っても亡んでしまう」として世を混乱させる僧であると追放してしまいました。 さて、泰時が執権になってからも北条政子は幕政を支配していました。政子が帰依した僧が臨済宗黄竜派の明庵栄西であります。
VOL.33 2001.5.25
時頼の信仰
足立(安達)盛長の孫娘が3代執権北条時氏と結婚して経時・時頼・為時・時定を出産し、その養育につとめましたが、寛喜2(1230)年6月に夫の時氏が死去いたしましたので、実家の安達家へ帰り出家して松下禅尼となりました。 この年の5月に前将軍の頼経や一族の北条光時らの陰謀を知った時頼は、鎌倉中を制圧して、それに連座した評定衆を罷免し、光時を伊豆に、頼経を京都に追却し朝政刷新をしたり、最も大きな勢力をもっていた三浦一族を滅亡させて得宗専制体制を確立させました。 北条得宗家の信仰は、北条政子が栄西禅師に帰依してより臨済禅に深く傾倒していましたが、時頼は道元禅師を鎌倉に招いて禅による為政者の心がまえを聞いたということです。 道元禅師は源通親の子でありましたが、幼いときに父母に死別し、比叡山で剃髪し天台宗の僧として修学し、さらに宋に渡り天台山万年寺で、次いで天童寺如淨に禅を修学して、安貞元(1227)年帰国して曹洞宗を開きました。新しい宗派に叡山からの圧迫があり、波多野義重の招きで越前に移り永平寺できびしい修行に打ちこみ在家仏教や女人成仏を否定し、出家至上主義をつらぬき、北条時頼の招きで鎌倉へ下りますが、すぐに越前へ帰っており、建長5年(1253)京都の宿で高潔な生涯を閉じます。享年54歳。 この時代元が宋を侵略するようになり、戦乱をさけて日本に渡来する禅僧が多くありましたがその中の一人に蘭渓道隆がいます。この僧は南宋に生まれ、12歳の時禅僧となり明州天童山にいましたが、数人の弟子と共に寛元元年(1246)に博多へつき、のち鎌倉に下り寿福寺にいました。 中国直輸入の禅院を鎌倉に開いた時頼は、そこに精神的支柱を得て、道隆を戒師に出家して最明寺入道道崇を名のります。
VOL.34 2001.6.1
安達泰盛と時宗
北条時宗は北条氏得宗政治を強化した、蒙古の侵略という民族的国難を救った青年政治家としてよく知られていますが、それをささえていたのが時宗の妻堀内殿の兄安達泰盛でありました。 安達泰盛は若くして将軍藤原頼嗣の近習となりましたが、続いて引付衆、引付頭、評定衆となり、さらに越訴奉行にもなりました。泰盛の名が「吾妻鏡」に最初にでているのは寛元2年(1244)6月に大番番頭を勤めていたとされていますが、14歳の時にすでに鎌倉市中の警護役の頭をつとめ武術もすぐれていたといわれています。文永9年(1272)以後は肥後守護となり、執権の北条政村、時宗の政局に加わり「威勢先祖に越えて人多く随いき」といわれております。 時宗が執権となりましたのは文永5年(1268)で18歳の時ですが、庶兄の北条時輔の陰謀事件や、蒙古国書の到来など幕府をゆるがす事件が相つぎ「当世は乱世、去年より謀叛の者国に充満せり、今年2月11日合戦、其より今5月のすえ、いまだ世間安穏ならず」と二月騒動を予言された日蓮聖人の御遺文にもありますが、この社会状況をのりきり、九州の非御家人まで動員して異国警固番役を命じ、九州の防禦体制を固めるのに、安達泰盛をはじめ足立一族が青年時宗をささえて国難に対処したのです。 文永11年(1274)文永の役がおこります。御家人の奮戦で殺戮戦が続き博多は占領寸前でありましたが、夜半の強風で元軍は撤退しました。翌年また元の使者が来ましたが時宗は、5人の使者を鎌倉竜の口で斬り断固戦うことを内外に示します。 また安達泰盛は祖父景盛の影響もあり早くから高野山を信仰していました。一族の玄智は金剛三昧院の長老でありましたが、泰盛は奉行をつとめて金剛三昧院に勧学院、勧修院を造立して学問と修法の道場にしたり、印刷事業を推進して高野板開板を外護しています。特に石造町石を寄贈し先祖の菩提と時輔らの霊を供養しています。金剛峰寺の過去帳には前陸奥守入道覚真の名がみえるとのことです。
VOL.35 2001.6.8
弘安合戦と平禅門の乱
安達泰盛は妹が時宗に嫁してのちの執権貞時を出生してから幕政の中枢にありました。時宗は弘安7年に急逝したのですが、その時の評定衆は泰盛父子のほかに北条顕時、北条政長などの安達家の姻族が6名もおりましたし、引付衆にも泰盛の弟が2人(長景、時景)のほかに二階堂氏、大江氏などの姻族が4名おりました。 しかし幕政の実態は、蒙古の襲来以来戦時の総動員体制は継続しなければならないし、異国警固番役の負担は重く、恩賞に対する不満もあり、御家人困窮は深刻であり、御家人の利益を守ることにも限界があり、御家人との合議で幕政運営をすることに反対である御内人の平頼綱とするどく対立していました。 足立氏も遠元の孫遠親の子の時代となっていましたが、足立宗家の太郎直元左衛門尉は敗北して足立郡の所領も没収され、自害しました。自害者の中に和泉六郎左衛門尉もいますが、天野景村のことで、遠景の子孫までこの事件に連座していますので、足立、安達同族のすべてをまきこんだ争乱でありました。 平頼綱は恐怖政治で独裁し、ついには次男の助宗を将軍にしようとしました。永仁元年4月13日関東に大地震があり、将軍御所をはじめ諸大寺が倒壊、炎上し、死者2万3千余という大惨事となりました。 日蓮聖人と頼綱は何度も対面していますが日蓮聖人をにくみ、徹底して迫害し、法華門徒を全滅しようとしたのが頼綱です。文永8年9月10日に対面した時も、聖人に「理不尽なあやまちによって同志討をくりかえし、外国より侵略の難を受ける」と諫言され、「物に狂う」ようになったのです。 |
足立氏列伝
丹波 山垣 万歳山 山垣城址 2002.4.27
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VOL.37 2001.6.22
足立遠政
丹波氷上町の郷土史家細見末雄氏が昭和53年の電話帳で調査したところ、氷上郡内の足立姓は1,576、多紀郡44、京都府天田郡785、綾部市54、船井郡19、亀岡市21、更に朝来郡336、養父郡50、豊岡市62、三田市19、多可郡157、西脇市59となっており計3,182と報告されています。 その中心は青垣町佐治郷でありますが、足立遠元の孫遠政が承元3(1209)年丹波氷上郡佐治郷の地頭職に任ぜられて、武蔵国桶川郷より丹波へ来たことによります。源頼朝没後約10年、実朝将軍の時代のことですが、この頃は関東武士が守護、地頭として関西地方に多く任命されており、遠政が来たころには地頭や庄官として氷上郡内各地に武士団がいて、それぞれ勢力を拡張しようとしていました。 「氷上郡志」によりますと遠政が最初に住居としたのは小倉の太夫殿屋敷であったとされています。青垣中学校の上で「一町四方左右に谷川あり、近世光明寺境内となりしところ」とされ、これより東五町餘のところに「遠政下屋敷」があり、「面積六反、今は妙法寺の境内となれり」とあり、筆者が住職をしています妙法寺です。 佐治庄は延喜の出雲路の駅があったところですが、石高三千石程度でありました。遠政は敬神、崇祖、よく関東足立氏の家風を遵守し、武勇にすぐれ、礼節を重んじて、質実堅実な政策をとり、一族と共に新田を開き仁政を施して豊田開発をしています。 遠政には政基、遠信、遠高、慶範、遠堅、政仁、遠尚と7男あり、孫12名、曾孫は多数でありましたが、そうした一族を数里四方の山里分住、また遠阪、岩本、稲土、田ノ口、小和田等に城を築き一族を配し山垣城の支えとしました。足立遠政の二男が小和田城を築いてこの地を領有したとか、佐治、小倉、市原は岩本城の領下とかの古記録もありますが、佐治の集落支配のことであったようです。
VOL.78 2002.8.16
後醍醐天皇と丹波の足立氏
弘安8年(1285)11月将軍の公邸まで焼失させるという激闘の中で安達氏が全滅しましたが、幕府の政治は最高の指導者として、御家人体制を維持しなければならない得宗が、北条氏の惣領として御内人にささえられながらその頂点に君臨しなければならないという矛盾にあります。得宗専制にしようとすると御家人との対立はさけられません。強い権力をもって恐怖政治により御家人を支配しようとした平頼綱は執権貞時に討たれてしまいました。 この幕府の混乱を見極めた後醍醐天皇は倒幕を決意されます。無礼講という遊宴で密かに計画を討議していたことを密告され主謀者を自刃させたのが正中の変で、20万騎の幕軍が都におしよせて「日本国動乱の始まり」といわれたのが元弘の変です。 一方「太平記」によりますと「丹波の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりける」とあり丹波の足立三郎が千種忠顕の指揮のもと六波羅勢と闘っています。このように足立一族も北条の御内人となったものと、丹波の足立一族として後醍醐天皇側についたものとに別れており、関東から足立の勢力が消滅していったのです。 さて丹波の足立氏は、遠政が承元3年(1209)地頭として佐治庄を拝領して東国から来たのが最初です。遠元の子が遠光で、その二男が遠政で久保田左衛門尉と号していますし、母は源三位の女ということです。源三位というのは源頼政のことで清盛につかえましたが、以仁王の挙兵に加わり平等院で敗死します。 「吾妻鏡」文暦2年(1235)に田中郷の地頭佐々木高信の代官と日吉(ひえ)神社の神人が喧嘩したことから僧兵が強訴した時、足立遠政、遠信父子ら官軍と僧兵の乱闘になり宮人が重傷したとのことで遠政父子は流刑と決められたことに対し幕府が反発した話があります。
VOL.38 2001.6.29
遠谿祖雄
足立遠政の孫光基の子に又三郎基継、四郎基明、遠谿禅師祖雄、基景、四郎九郎基綱等がありますが、この光基の第3子が傑出した禅僧として有名な祖雄で、丹波氷上郡佐治庄で弘安9年(1286)に生まれています。 この時代は蒙古襲来以来社会の混乱期で元に追われた宋の僧侶も多く来朝していました。臨済宗の宋僧蘭渓道隆、無関普門、無学祖元等が北条氏の外護をうけ諸大寺を残していましたが、祖雄は中国へ渡って本格的な仏教を修得しようとしました。 普応国師は中峰明本のことで幻住道人と号していました。五戒をまもり毎日法華、円覚金剛等の経典を読誦、多くの信徒あり常に名利をさけて隠棲しようとしますが法席に学徒が集まりました。嗣法にも多くの僧がいますが祖雄もその一人です。 博多に上陸してみると老母の逝去の報せがまっていました。九州に10年間隠棲していましたが帰朝したことが伝えられ多くの人々が参集するようになりましたので弟子にあとをまかせ、正中2年(1325)郷里に帰って来ました。 遠谿祖雄のうわさは近隣を超え、その道風をしたい集まる僧たちも多く、中峰派、幻住派としての宗風を慕い法席はさかえました。このことは後醍醐天皇にも達し、高源寺号と鉄鉢、龍頭杖を下賜され、京都に召されもしましたが、中峰明本の教えを守り固辞して山を下りず、中峰派の根本道場として僧侶の養育につとめました。 遺体は壺に納め松樹の下に葬ったとのことで、その地には霊光殿という小院が建立されました。現在の観音堂のところといわれています。遠谿祖雄禅師は平素から「わが肖像を画くな、安牌も不用」といわれていましたので、霊光殿には観音様を祀ったと思われます。
VOL.39 2001.7.6
足立宗次入道左衛門尉基高
丹波青垣町小倉に瑞岩山高源寺を建立し僧俗の信仰を幻住禅に帰依させた高名の僧遠谿祖雄禅師が遷化されて20余年が過ぎた頃、小倉にあった岩本城主でありました足立宗次が3万石の大名として活躍しています。 「朝来郡史」によりますと、月庵宗光は正平22年(1367)秋に但馬の黒川にきて其の幽奥を愛し錫を駐めて石上に坐すること数ヶ月、僧俗つたえ聞いて帰依するもの雲の如しであったとのことです。 このことを主家の山名氏に話したところ、但馬山名氏の祖となった山名時義も月庵禅師を援助して大名寺建立を寄進し、千石千貫の地を寺領とします。山名時義の父は関東の一介の農民でその生涯は戦争に明けくれしていましたし、時義も晩年に月庵禅師に帰依していましたが、学問とか教養を身につける文化生活は無縁で、3代目の時凞に至って幕府の四職に就任していますので、若き日の時凞が月庵から得たものは大きかったと思えます。 月庵宗光禅師の遷化が康応元年(1389)であり、同年に父時義が逝去していますので23歳で山名宗家を継ぎ、山名家の内紛で長男時長も敗死するし、領国はうばわれ敗走します。のちに明徳の乱で奮戦し、やっとのことで時凞は但馬の守護となりましたが、さらに大内氏を滅亡させるのにも丹波の久下、長沢、荻野を味方につけるのにも宗次入道の助力は大きかったと思われます。 「青垣町誌」には「岩本城主足立宗次入道と申すは3万5千石の大名にて、今その城跡の本丸の所は小倉黒尾大明神宮下前なり、市原、小倉、佐治は以前一所にて岩本の城下なり。御在職の間但馬餘部庄黒川村の所領地を大明寺へ寄進致し候故置文、寄進状、御位牌由緒書あり」と記されていますが、この文書に寄進したのは貞治6年(1367)3月26日沙弥宗次、嫡子次郎左ヱ門藤原実基の名があり、又置文には永和4年(1378)12月12日忠基、政連の名があります。 そのことは、和田山町の足立節治家に伝わる「足立氏家系略伝」にも記されています。「山名宮内少輔時凞の家臣に足立宗次なるものあり、丹波氷上郡に食邑す。三万石を領す。山名の衰ふるに及びて足立の族、東西離散して其の居を一にせず」とあり、足立姓を名のる古い歴史の家が但馬各地にあることを「ああ、足立の系、何ぞ其の昌んなるや、蓋し是れ宗次忠誠の遺徳遠く子孫に被ふものか」とされ、宗次を但馬、丹後の足立氏の祖としています。
VOL.79 2002.8.18
南北朝時代の足立氏
足立遠元の嫡流は先祖の遺風をついで武勇と礼節を重んじて幕府の中枢にいましたが新田義貞に攻撃され、六波羅につかえていた足立長秋、則利、則惟らは近江国番場宿で自害しましたが、足立遠元の六世子孫でありました安芸守足立遠宣は足立一門を率いて足利尊氏に従い六波羅攻めに加わっていました。足立遠政の孫、三郎光基も千種忠顕の指揮下に六波羅攻めをして北条氏を亡ぼしました。 建武中興により足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻しましたので、後醍醐天皇の守護の任にあたっていた足立遠宣は南朝を奉じて後醍醐天皇に忠節を尽くし、関東に帰ることなく南朝と運命を共にします。ところが延元元年(1336)5月25日湊川で楠木正成が戦死し、後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、6月5日には千種忠顕が西坂本で、30日には名和長年も京都で戦死してしまい、天皇と共に比叡山に登った足立一族も厳しい状況となってしまいました。その上比叡山の兵糧が底をついたのを知った後醍醐天皇は10月10日に足利尊氏と和睦されてしまいます。 南朝の忠臣でありました足立遠宣は同志と共に後醍醐天皇と離れて南都へ落ち、「足立遠宣、南都で出家す」ということになってしまいました。かくして北条氏を滅亡させ、南朝に最期まで忠節をつくした足立遠宣一門も四散し、播州、備中、備前に逃れ南朝の再興を期したものがいたのです。 この子孫の足立信則は備中守となり備中草間の川崎城主となりました。足立信則は尼子経久に従っており、その子の足立右馬允久信は出雲の十年畑高尾城主となり、更に島根半島の葛籠尾城主も兼ねています。最後まで南朝忠臣として節を重んじ、出家してしまった足立遠宣の一族も、北朝方で栄えた足立信政を頼って備中や、山陰方面に流れ、尼子の配下になった者も多かったようです。 一方丹波の足立光基も、荻野彦六朝忠等と丹波高山寺の城にたてこもり「今更人の下風に立つ可きに非ずとて」児島高徳と共に南朝の錦の御旗を奉じて立ちあがりますが時すでに利あらず、足利尊氏の命によって出陣して来た山名時氏に敗北してしまいます。 鎌倉幕府から氷上郡に派遣された地頭は市島町鹿集(カタカリ)庄へ吉見資重が、山南町栗作郷へ久下直高と青垣町佐治郷の足立遠政ですが、芦田氏は保元3(1158)年ということで、その一族は丹波で優位にたっていました。
VOL.41 2001.7.20
足立権太兵衛基則
「丹波史年表」によりますと足立権太兵衛基則は天文22年(1553)に佐治妙法寺を建立したとあります。また「丹波志」によりますと「立正山妙法寺、法華宗」「開山権大僧都智願院日岏上人、京の本山より弘通に下向して、則ち岩本の庵室にて毎日説法せり。当所の郷士足立氏左衛門太夫という者、真言宗の仏音にて、智願院を招き、三日三夜宗論問答し、終に帰依して改宗す。其上足立氏の下屋舗を開山に寄附す。故に建立一寺ものなり」とあります。 また「妙法寺文書」によりますと「遠基十三代蔵人次郎勝秀を堀殿と号す、居は丹州氷上郡小倉村、先祖より当国十余箇村を領す。長男権太夫長秀堀殿と号す。其男基秀左京太夫という。其子基則権太兵衛と号す。後に左京太夫、氷上郡小和田に居すの時…・」とあり、さらに信長公にいささかの意根あり、日向守光秀謀叛の時に日頃の素懐をとげるため天正10年6月2日本能寺の変に参加したとあります。 天正初年頃、戦国の平定もその緒につき上洛してきた信長は、京都の後背地の安定をはかるため丹波攻略にのりだします。天正3年(1575)春に明智光秀を丹波に封じ亀山城を落城させたことから始まる丹波の大動乱が延々とつづくことになります。 丹波では天文23年(1554)正月2日、朝日城主荻野直正が謀叛をたくらんで叔父の黒井城主荻野伊予守秋清を刺殺して黒井城を乗っ取り、名を悪右衛門直正と改めました。直正は父の時家を中心に、兄の家清を高見城に、弟の幸家を三尾、長谷の両城に、父の時家は後屋、穂坪の両城に配置し氷上郡の全域を支配しようとしました。 弘治元年(1556)三好長慶党の松永、内藤両氏の連合軍が赤井一族を討つため香良に結集、これに芦田、足立軍が加わって赤井一族総攻撃を画策しました。そこで赤井時家、家清、幸家、直正らは香良に奇襲をかけました。長慶党は赤井の奮戦により口丹波へ敗走、芦田光遠も直正に討たれ足立基則は敗北しましたが、直正も手傷を負い、赤井信家討死、家清も深傷、直正も坂兵衛に背負われて帰城し「敵、味方の死骸かさなり」と多数の兵士を戦死させた勝敗のわからぬ合戦だといわれています。 足立基則は山垣城を去り、悪右衛門直正が丹波半国と但馬の一部までその勢力圏を伸ばしたので山垣城も赤井の幕下となりました。天正3年以来の明智光秀、羽柴秀長、丹羽長秀らによる丹波攻略で丹波の城は落城、赤井氏の本拠保月城も落城し一族郎党戦死、残ったものも路頭に迷い諸国に散っていったのです。 「山垣城主足立彦助の代に、明智光秀の攻伐により一旦落延び、其の後彦助此所に立帰り山垣殿と云えり」「牛河内村先祖山垣城主の長男四郎左衛門基依、山垣村没落後此所に住す」と「丹波志」にありますが、激戦の敗軍の将としては不思議です。赤井氏等の弾圧で足立一族は早くから帰農していたのですが、かつての山垣城主だった足立基則の信仰とも関係があったのです。天正11年に一族の安泰のため基則は切腹したのです。
VOL.42 2001.7.27
足立基則の子孫
足立基則は遠元13代勝秀堀殿の孫であり勝秀が先祖から継承した当国拾余ヵ村の所領を領有していたとされていたり、「丹波戦国史」では、山垣城主足立権太兵衛基則とされていて、正当な足立家本流とされています。 遠阪城、山垣城が焼け落ちたのは天正7年(1579)5月のことで、織田信長の連合軍による第2回目の丹波攻めの時で、但馬からおしよせた明智光秀、羽柴秀長の大軍が遠阪峠をこえて遠阪城、山垣城を半日足らずの戦いでもみふせ、足立遠政以来370年の足立一族による佐治郷支配の拠点は消滅します。この時遠阪城主の足立光永は自ら城を焼いて自刃したといわれています。 数年にわたり幾度もくりかえされた戦乱に対抗して足立一族は、本拠山垣城が落城しても、足立氏ゆかりの諸寺焼亡し、家屋焼失するという戦禍の中で祖先墳墓を守りつづけ生きるために労苦をいとわなかった姿があります。 このことは足立基則の存在を無視して考えられないと思います。先にみましたように、山垣城主であった足立基則は、弘治元年(1556)に沼城主芦田上野介光遠とともに由良庄香良村で赤井一族と激烈な戦いをしています。この戦いは氷上郡全域を支配しようとした赤井一族に対抗し、芦田光遠と基則が丹波の守護代内藤国貞に助けを求め、三好、内藤軍と芦田、足立軍が香良に結集していたところを赤井軍の奇襲をうけ猛攻撃にあい、芦田光遠も戦死、基則も敗走した戦闘です。 岩本系足立氏の「生命は第一の宝」という信仰が天正の乱で足立一族を救ったのです。しかし光秀の本能寺の変に加わった基則は秀吉の残党狩りに自分の死が足立一族を救うと悟って亀山城で天正11年1月18日養子宗忠と弟宗立と共に自刃しました。 娘婿の宗忠の子に理右衛門宗秀、源六左衛門正秀、孫兵衛尚秀の3人がいますが、いずれも伯父の碓井守良をたよって紀州へ行き、桑山宗栄公の家臣となりました。また、尚秀の子の定秀は桑山家につかえ文禄の役では朝鮮に出兵して感状を受けており、慶長の役では軍功があり有力な武将として活躍しています。
VOL.43 2001.8.3
足立氏と赤井氏
弘治元年(1555)に氷上町香良でありました足立氏と赤井氏の戦闘は、源平合戦以来繰り返された丹波の合戦の中で最も激烈をきわめたものといわれています。この合戦で赤井信家、芦田光遠は討死、悪右衛門直正の兄の高見城主赤井五郎家清も深傷を負い、のちに32歳で息を引きとります。この合戦で敗北した沼城の芦田、山垣城の足立は赤井に服し、荻野直正の幕下になりました。 このことは山垣城が落城し、足立一族が各地へ亡命したのですが、基則は近親者と共に斉藤利三の配下になり明智光秀にしたがって本能寺へ攻め入っていることでも明らかですが、足立一族が郷里の先祖伝来の土地で帰農することにかかわり、家の存続を保障させていることにつながっています。 さらに足立基則に攻撃された赤井一族にも、赤井姓を改めて足立姓を名のったものもいます。足立一族の生命を保障し、落城後も先祖伝来の土地に帰農させたのなら山垣城が焼滅しても足立氏は城と運命を共にしなかったということです。 黒井保月城開城は足立基則が和議をすすめて赤井一族の生命を救ったと思えます。それは当時赤井一族の長兄家清は先年に香良の戦いがもとで32歳で死去、悪右衛門直正も「痬」で前年に病死しており直正の嫡子直義が城主となりましたが、9歳の少年で、叔父の赤井刑部幸家が総指揮をとっていました。 幸家の死後久基は父幸家の弟赤井弥平衛時直をたよって大和宇智郡犬飼村で養育されますが、時直は千5百石の旗本であり、久基ものちに赤井本家の旗本忠泰の女と結婚しますが、この際改姓して赤井から足立にしています。 足立基則の養子は、基則の弟香良の二男宗忠ですが、岩本城で生まれた宗忠の三男足立孫兵衛尚秀は父の自害で叔父碓井重兵衛守長を頼って紀州へ行きます。この叔父は和歌山城主4万石の桑山宗栄公の家老をしていましたので尚秀は町奉行を命ぜられました。
VOL.80 2002.8.20
足立正興とその兄
本能寺の変に明智光秀に加わり、織田信長を倒しました足立基則の孫に尚秀がいますが、孫兵衛尚秀は祖父の自刃後伯父、碓井守良をたよって紀州に行き、のちに桑山宗栄公の家臣になりました。この尚秀の子に定秀(正興の兄弟)があり、定秀は幼名勝三郎といい、後に三太夫と改めていますが、大和の新庄一万六千石の桑山家家老となっています。 孫兵衛尚秀の二男に兵庫正興兵助がいます。正興が生まれたのは氷上郡青垣町小和田とされていますので、小和田城に基則を中心に子、孫の大家族で住んでいたことになります。そして天正11年(1583)5歳の時に兄とともに紀州の碓井守良をたよって落ちのびたのです。尚秀につれられ7歳と5歳の兄弟が丹波から紀州へ、そして大和へとつれていかれ厳しい環境の中で幼少期をおくっています。 慶長19年(1614)10月中頃に大御所家康公は将軍秀忠公とともに戦闘を開始します。大坂冬の陣で11月1日にこの合戦に加わっていました桑山左衛門佐の軍勢は小山表で大野主馬軍勢に出合い戦闘が半時あまり続きまして桑山軍が勝ち敵多数を討取り一息ついていましたところへ、大坂勢の中より花やかな鎧の武者一騎が桑山左衛門佐一直公をめがけて馳せ来て、一直公に切りかかりました。 翌年4月にまた大御所家康公は将軍と共に大坂を攻め大坂夏の陣がはじまりますが、その軍勢の備に松倉豊後守と桑山一直公の軍が前後の備として進軍し、国分峠に陣を取っていた時、大坂方の夜うち奇襲にあい伊達政宗公の軍へ鉄砲を打ちかけられ大坂勢山野に満ち、伊達政宗勢の旗色が悪くなって来ました。 桑山家は和歌山城主でありました治部郷宗栄公修理太夫重晴を祖としています。宗栄公は秀吉に仕え賤ヶ岳の戦功で但馬竹田城を与えられ、天正13年(1585)和歌山城代となりました。その孫一晴が関ヶ原戦功で二万石を分与され大和に移りますが、一晴歿後弟の一直が襲封し新庄村に陣屋をもち、新庄藩と改称していました。足立兵庫正興は一直公とその息子一玄公に仕え、万治2年(1659)8月に82歳の生涯を了えています。 久基半左衛門については赤井系図に次のことが記されています。久基は赤井幸家の八男で文禄4年丹波で出生、慶長11年父死去の時には12歳であったので、大和犬飼村の叔父赤井弥平衛時直に養われていましたが一家を立てたとき赤井姓を足立姓に改め赤井知行の千石を托され、時直より百石の配分を受けた。その子の久貞も一直公に仕え中老となっています。
VOL.81 2002.8.22
足立氏忠臣蔵
丹波妙法寺の創立者で岩本城主だった足立権左兵衛左京大夫基則のことについて、もう一度「大和曽大根足立家系図」によって整理しておきたいと思います。 天正13年(1585)に秀吉が和歌山城を征服し、秀長に与えましたが、秀長は和歌山城の城代に桑山重晴を用い和歌山三万石に和泉の一万石を加えて四万石を領有させました。碓井香良の子の守長は、主君の桑山重晴に従って紀州和歌山に住んでいました。この碓井守長の弟の香良の二男が宗忠で、足立基則と妻の大内夫兵衛の娘との間に生れました女子の婿養子となっていました。 桑山家は紀州和歌山城主でありました桑山重晴の嫡孫一晴が関ヶ原戦で新宮城主堀内安房守氏善を攻略した功により、重晴より二万石を分与されまして、大和国葛下郡に陣屋を構え新庄藩をつくりました。桑山一晴はのちに重晴に養老料として四千石を分知していますので一万六千石となっています。そしてこの新庄藩は一晴から弟の一直、一玄さらに一尹と継がれています。 この時桑山家の家老は足立尚秀の三男瀬兵衛正吉や、足立定秀の孫の純基、さらに、足立三郎右衛門尉久貞などでありました。将軍綱吉の時代で大名取りつぶし政策の犠牲になったのです。主家の改易で新庄城開け渡しの大役が彼等の責務となりましたが、その時やはり足立一族を救済したり、赤井保月城落城の時に赤井一族を救済した基則の意志が伝承されていたのか、家中の武士達の仕官を世話したり、浪々する者には内蔵金の配分を厚くして一触即発の暴動をおさえています。 赤穂藩の大石良雄はあまりに有名でありますが、桑山藩で足立氏の家老達が取りました処置も決して武士道にはずれるものではありません。主家改易による処置として家臣一同に生活設計を企画した人道的な指導理念としては大石内蔵助より勝っていたと思えます。しかし、碓井氏をたより大和へ落ちのびた足立氏の一族もこれにより、帰農するもの、医業で身をたてるもの、離散したもの等で数奇の運命をたどることになりました。
VOL.46 2001.8.24
足立権九郎基兼
足立遠政が地頭として丹波佐治庄を領有してから370年間、足立一族でこの地を支配していましたが、永禄2年(1559)には但馬の山名祐豊が山垣城を攻めたのを足立丑之助政之がこれを守り、また元亀2年(1571)に但馬守護の山名裕豊が山垣城を攻めたのに対し、足立基晴がこれを守っています。 さて、弥三郎基助には弥八郎基時と与三郎基徳との兄弟がありました。弥八郎基時の子が左衛門尉基則であり、与三郎基徳も葛野先祖としてその地で子孫が繁栄していきました。 慶長2年(1597)3月18日に逝去していますが、帰農してからの14年間に5人の息子達を分家させ、生業を与え先祖伝来の土地で一族が隆昌する基礎をつくったと思えます。市原の加門田に墓があり宗立院入道基兼が法名で、400年を経過していますが、その子孫が先祖講を毎年おこなってその遺徳を供養しています。 仁助基康には基兼の他に五郎右衛門、太右衛門、三郎右衛門、五郎左衛門の四子あり、それぞれ農地を与えて分家させ市原に住んでいました。五郎右衛門弥三郎の子孫は繁栄し、市原村の庄屋として村政を数代にわたり掌握しています。五郎右衛門、市郎左衛門、五郎太夫と相続し、子孫は分家して有力な家系を形成しています。五郎右衛門は万治2年(1659)逝去しています。 さて五郎左衛門のことですが、妻を黒川村より迎え嫡男甚右衛門が生れます。しかしこの妻は父子を残して若死にしてしまいました。そこで後妻に小倉村の長兵衛の娘と結婚して、また男子2人が生れていました。そうした縁で、小倉、佐治と西芦田の間で起きました山論にかかわってしまいました。山の入会権は村民の死活にかかわる重大事件でありました。市原の五郎左衛門は「小倉の訴訟状を誤認した」という京都奉行所の判決で、小倉村役人とともに五郎左衛門親子3人は承応3年(1654)に小倉村段ヵ端で打ち首になってしまいました。村人はその供養のため地蔵を段ヵ端川岸に建てて親子を祀りました。
VOL.47 2001.8.31
足立重信
江戸時代初期の武将として有名な足立重信がいます。足立重信は通称を半助、のちに半右衛門といい兼清、元清ともいっていますが、文禄年間に美濃国に生まれています。 ここでは朝鮮水軍のために苦戦しましたが、慶長2年(1597)7月の唐島の戦いでは明兵を討ちとり戦果をあげました。秀吉も加藤嘉明を重用しまして、文禄4年(1595)には伊予松前に転封して6万石の大名にとりたてました。この加藤嘉明が最も信頼した家臣が足立重信であります。 足立重信は、文禄、慶長の朝鮮の役に従軍して戦功があったとされています。慶長3年8月18日秀吉が死にますと、無謀な侵略と大量殺戮を強要された加藤嘉明と共に家康に接近します。関ヶ原戦では東軍に加わり加藤嘉明は出陣しますが、伊予の留守居役を足立重信にまかせました。 家老となった重信は土木行政に卓越した能力のもち主でもありました。荒廃地であった伊予川の下流に12キロにわたる新流路を開削して堤防を築き、5千ヘクタールの耕地の水防に成功、これにより20万石の良米を産出する良田ができました。人々はこの川を重信川と呼んで足立重信の名を今につたえています。 嘉明が伊予・正木(松前)に転封になった時、足立重信は松前城の築城奉行を行って、築城にも手腕を発揮しましたが、嘉明が関ヶ原合戦で岐阜城・大垣城攻略に成功した功により、伊予半国の20万石の大名になりましたので、松前城では不便になり、松山城築城計画が企てられましたが、その築城奉行となっています。 土木・治水・築堤技術にすぐれた能力をもっていた人物であったようです。足立重信もまた、関東の足立遠元を元祖とする家系といわれていますが、美濃、木曽川沿岸で育ったという出自が明確ではありません。
VOL.48 2001.9.7
足立藤九郎保宗
岐阜県可児市の可児郷土資料館の近くに柿下という村落がありますが、ここが一時は安芸・備後2カ国に49万8千石を領有していた大大名広島城主福島正則につかえていた足立藤九郎保宗の帰農した土地であり、その子孫はここに400年近くも居住し、一族は繁栄して分家がこの近在に数多く足立氏を名のり現在まで続いているということです。 しかし、その子孫が後北条氏につかえ武将として活躍しています。宗瑞が北条早雲を名のり氏綱、氏康、氏政、氏直の5代続いたのですが、足立保宗の先祖も祖父の足立憲保まで北条氏につかえました。 足立保宗の父九郎保茂は小田原で憲保が討死しましたので、母の実家のありました尾張へ、横須賀の郷士永田氏家をたよって落ちのび、ここで養育され成人を迎えます。永田氏家は福島正則につかえていましたので、保茂も福島正則の軍勢に加わることになります。 しかし、こうした福島正則の戦功の裏には討死する武将も多くあり、足立保茂も関ヶ原では武勇の士として正則から指領の一刀を贈られるほどでしたが大坂の陣では元和元年(1615)炎上した大坂城とともに武運つき47歳で討死してしまいました。正則は剛直な性格で意のあわぬものに対しては著しく攻撃的でありましたが、気に入った人間に対しては厚情をかけていました。 足立保宗もまた、正則について信州へ行き主人につかえていました。しかし、主家改易で浪人してしまったので、ついに美濃の柿下在で農地と居宅を求めて帰農してしまいます。これは徳川幕府の大名取りつぶし政策の犠牲になった武将たちの歩む道であったのです。
VOL.49 2001.9.14
北九州の足立氏
北九州都市高速四号線に「足立インター」があります。この近くに宇佐町があり、そこの小学校が「足立小学校」、萩崎町に「足立中学校」があります。また、ここには「足立森林公園」「足立山」があります。 和気清麻呂は奈良時代の政治家で女帝孝謙上皇に近侍していました。神護景雲3年(769)10月、九州の宇佐八幡神の託宣あり「道鏡を皇位につければ天下は太平となる」という内容だったのです。道鏡は河内の出身で、孝謙上皇の看病をした僧ですが孝謙帝の絶大な信頼により太政大臣禅師、法王となっていましたので、宇佐八幡宮と結託して神の名で即位しようとしたのです。 足立山の伝説では、道鏡に皇位を与えるかどうかということで勅命を受けて宇佐八幡の神慮を伺うため都から船で若松まで下って、宇佐に向って小倉まで来た時、山の麓で歩けなくなり葛の葉の中で寝ていたのですが、夢のお告げあり、この山麓に温泉が湧き出ているところがあるので、そこに足をつけると治癒すると教えられます。早速その温泉に浴していますと歩行できるようになり、宇佐八幡に参り神示を受けて都に帰り、道鏡の追放に成功したのです。 しかし、ここにも足立遠元から連綿として現在に至る系図が存在することを足立氏研究家の安酸睦博氏が報告されています。八女郡星野村一里塚の足立系図です。これによりますと足立遠元の子に定元、清恒があります。
VOL.50 2001.9.21
南九州の足立氏
平安末期以来の九州の雄族として知られています島津氏も足立遠元に関係があり、鹿児島県下に足立・安達姓が現在まで続いています。また、大分県では臼杵市、竹田市、三重町、清川村、大野町、久住町に足立・安達姓が多く、南九州方面に多く存在していますが、これは鎌倉時代の関東武士が下向したことによるものです。 このことは平田信芳氏の「島津一族、家臣団と南九州の地名」に記されていますが、関東武士団三十氏がこの地に来て、島津忠久が京、鎌倉へ帰った後も定住したことによります。 島津忠久は「島津氏系図」によりますと源頼朝の子で母は比企能員の妹丹後局とされています。丹後局は頼朝の寵愛をうけましたが、頼朝の妻北条政子の嫉妬が恐ろしくなり、西国へ逃げ出します。その途中大坂の住吉神社の境内で産気づき、夜間雨の中狐火に守られて男児を出産します。 忠久は元暦2年(1185)7歳のとき初めて父の源頼朝に対面しますが、畠山重忠の「忠」をもらって忠久と名のり、翌年には島津姓を与えられ、島津荘の地頭職を任じられました。このことから島津家初代となり、忠久は源頼朝の子であり、足立遠元の外孫が島津初代薩摩藩主忠久室であったのです。 大分県にも足立姓が多いのですが、安達泰盛が肥後守護でありましたので、これまた肥後へ足立・安達一族が下向したのですが、霜月騒動で安達氏が追放されましたので、足立氏を名のり、また関東からこの地の足立氏を頼って来た人も多かったので、足立氏が増えたと思えます。
VOL.51 2001.9.28
中国地方の足立氏
鳥取県の西北端に米子市がありますが、米子市から境港市にかけての弓浜半島地区には足立姓が多く、米子市だけでも足立・安達姓は200数十戸はあり、境港市に行くほどこの地域の足立姓の密度は高くなるといわれています。 鎌倉末期、足立遠元の嫡流でありました6世孫、安芸守足立遠宣は足立一門を率いて武蔵の足立郡桶川郷より、足利尊氏に従って西下してきました。足利氏の先祖は八幡太郎義家の孫にあたる源義康であります。新田義貞の先祖もまた源義重で、義康、義重は兄弟であり、鎌倉幕府創立の源頼朝と先祖を同じくする鎌倉幕府内の名門であり、足利荘、新田荘をそれぞれ領有していましたので、その地名を家名としていました。 急進的に独裁政治を展開しようとした後醍醐天皇に足利尊氏は離反し、光明天皇を擁立して室町幕府を開設したわけですが、関東から西下していた武士団もどちらかに分裂して抗争せざるをえなくなったのです。 足立信政は延元元年5月25日(建武3年)湊川にて足利直義が苦戦していた時、楠木方の豪将、箕浦兵衛尉を打ち取り、その功により播磨守に任ぜられています。また信政4世孫の足立信則は備中守に任ぜられ、備中英賀郡草間の川崎城主になっており、尼子経久の家臣となりました。 足立久信の長男長良次郎左衛門は出雲尼子十三人衆の一人とされていますし、次男の足立宗兵衛久純は草野にのがれ鉄山師となっています。また旧尼子家臣が吉川広家に臣従したものに足立治兵衛、足立八右衛門、足立長太夫、足立藤兵衛、足立又兵衛、足立市右衛門がいました。
VOL.52 2001.10.5
岐阜県郡上の足立氏
美濃国の土岐氏は管領につぐ格式で室町幕府に迎えられていましたので、在京の機会が多くその一族も京都に住んでいました。南北朝時代に岐阜県揖斐荘に揖斐城を築き、荘内に大興寺を創建して勢力をもっていました土岐頼雄も、在地武士の力が強くなり、郡上八幡を拠点に有力となった斎藤妙椿のため一族が分裂してしまいます。 足利義教は、室町幕府第6代の将軍で3代将軍義満の子であります。応永元年(1394)6月に生まれていますが、4代将軍義持の異母弟でありましたので、生まれて間なしに青蓮院に入室していましたが応永15年に得度して義円と称し、応永18年に大僧正となり、応永26年には天台座主となっていました。 ところが6代将軍義教は将軍専制を志向するようになり、管領の権力を抑止したり、公家に対しても圧迫を加え、延暦寺も弾圧、鎌倉府を滅亡させるなど、その性質は残忍峻烈で、土岐持頼も殺されており、ついに嘉吉元年(1441)6月に赤松満祐に誘殺されてしまいました。この義教には側室が多く、男子11人、女子8人の子がありました。土岐頼雄の女も側室の一人であったとされています。 土岐蔵人頼雄が祖父でありますので、その一字をもらって頼直とし、足利姓も隠して足立を号します。この足立はおそらく祖母の実家姓であったと思われますが、この郡上郡口明方村の旧家は今も続いていますが、代々の分家が多くあり、美濃地方の足立家の祖となっています。 足利将軍と足立が深い関係にあることは、足立信政が尊氏に従っていたことでも明らかです。そして郡上郡口明方村の足立氏は直接足利氏と血縁でも結ばれていたのです。
VOL.53 2001.10.12
三河の足立氏
南北朝の動乱で足立遠元の遺風を家風としていた足立氏は、南朝の衰微とともにその勢力は衰退していきましたが、戦国時代になると更にその傾向が強くなっていきました。 江戸幕府が編纂しました大名・旗本・幕臣の系譜を集めた「寛政重修諸家譜」という本がありますが、この本にでてくる足立遠元の後胤とされる右馬允遠正という広忠卿につかえている三河武士がいます。 三河の武士は、あがる年貢は今川氏に取られ、今川家から来た城代たちに使役され、新田を開墾して食うことに追われ、戦争になると先陣をつとめていましたので、その家臣であった足立遠正も大変な苦労をしていましたが、更に松平広忠の子家康は5歳で人質として今川に差し出されていますし、広忠も26歳で織田方の刺客に殺されるという状態で、主のいない三河は今川の保護領となり家臣団は苦闘と忍従の生活でありました。 永禄3年(1560)5月18日桶狭間で織田信長の奇襲にあい今川義元が戦死しましたので12年の人質から解放された家康は岡崎城へ帰ってきました。 慶長5年石田三成と家康が挙兵いたしましたが、青木紀伊守直重が家康に従うということで、その使者に足立政定が小山の陣へ行ってこの事を言上すると、家康は非常に喜んで呉服五領を政定にあたえました。 遠清のあとは又市郎遠重、そして伝七郎遠広、伝之助遠綱とこの旗本家系は明治維新まで世襲され続いています。
VOL.54 2001.10.19
足立氏の家紋
家紋は、平安後期に発生し、家の印として用いられました。苗字を紋にしたもので、氏の印ではありません。公家社会では印として調度品や牛車につけていましたが、家長を中心とした家族を中心に、その家の名称を家名といいますが、この家名を図柄で表わしたものが家紋です。そしてこの家紋は自然に世襲されるようになりました。 さて足立氏の家紋についてでありますが、武蔵国足立郡在住の足立家の遠祖である遠兼の家紋が「日の丸五本骨扇紋」でありました。足立遠元もこの紋と替紋として「カタバミ紋」を使ったということです。12世紀のことですが、播州杉原の「藤原支流足立氏系図」にそのことが明記されています。 また「丹波志」の足立左衛門尉遠政正流の項に、足立の定紋は、丸に五本骨扇子金地にして日ノ丸、舞鶴の紋、替紋丸に剱カタバミとあり、その紋の由来が記されています。 青垣町山垣の報恩寺は、初代足立遠政が万歳山頂に建立し、祖父遠元、父遠光を祀ったとされていますが、天正の乱にて焼失、慶長3年(1598)再建され現在地に移っています。足立右馬允遠元、足立左衛門尉遠光、足立久保田左衛門尉遠政の大位牌があり、この位牌には、「日の丸五本骨扇子紋」と「カタバミ紋」が鮮やかに数個刻まれています。 大和五条市の足立氏、大和高田曽大根の足立氏、丹後、中郡峰山町の安達氏、春日町歌道谷山王権現の安達氏、但馬和田山町宮田の足立氏、竹田町藤和の足立氏、青垣町山垣の本流足立氏、遠坂今出権現の社家、野上野の足立氏、市島町牛河内の足立氏等で、同じ足立氏でも五本骨扇紋を家紋としている足立氏が多く青垣町のほとんどの足立氏の家紋は「日の丸」なしの「五本骨扇子紋」です。 「丹波志」畑中足立氏の項に、いにしえ、兄弟四人あり、嫡男足立西殿、次男堀殿、三男土田殿、四男少補殿、今は日の丸五本骨扇紋なれど、古くは、剣カタバミ、鷹羽違、茗荷紋なりとあります。
VOL.55 2001.10.26
姓氏大辞典と足立氏
姓氏家系大辞典は太田亮氏が昭和11年に全稿完成したもので、著者が諸家の系図を集めてから30余年を費やして完成されたものであります。 この辞典の足立氏の項には、1.武蔵の足立氏、2.丹波の足立氏、3.尾参の足立氏、4.河内の足立氏、5.常陸の足立氏、6.源姓の足立氏、7.坂上姓足立氏、8.其の他、に区分されており、安達氏については、1.陸奥安達連、2.坂上流、3.藤原姓、4.東鑑、5.安達太郎、6.讃岐の安達氏、7.芸備の安達氏、8.丹波の安達氏、9.若狭の安達氏、10.三河の安達氏、11.その他となっています。 武蔵の項によりますと、足立四郎遠基と右馬允遠元は同人であり、尊卑分脈の安達氏というのは足立氏であるとし、東鑑でも安達と足立を区別しているが、平家物語では安達新三郎を足立としているので、安達氏も足立氏にほかならないとされています。 安達氏を陸奥安達郡より発祥するかの如きは後世のこととされ、平治物語に足立四郎遠基の外に足立新三郎清恒、平家物語に足立新三郎、源平盛衰記にも同人が記述されていると紹介されています。 丹波の足立氏については丹波志中心に書かれていますが、遠元の子遠光が東鑑に見えないことにふれながらも、小和田城は遠政の次男左衛門尉遠信の居城とも、左近大夫の居城ともいう、又三原城も足立氏の居城で、足立広成、政成あり、稲土城は足立修理大夫政家(大灯寺殿)の居城等がふれられています。 安達氏については、奥州安達郡より起った安達氏と、足立・安達と音通ずることにより本来足立が安達と書かれているにすぎないという二流のあることが書かれています。陸奥安達氏は高麗の帰化族が、姓を安達連といい、その子孫が安達氏を称したというのであります。 その他の足立氏には「太平記」の足立源五、足立新左衛門、足立五郎左衛門、足立又五郎、「応仁記」に丹波の足立、「安西軍策」に足立治兵衛、足立十郎兵衛国徹、徳川時代になって足守木下藩、浜松井上藩、水口加藤藩等に足立姓の重臣のあること、鯖江家臣に足立氏の多いことなどが書かれています。
VOL.56 2001.11.2
二つのあだち郡
苗字と地名とは深い関係があります。地名が苗字となっている数を特定することは困難なことだといわれていますが、苗字の80%以上が地名姓ともいわれています。苗字は二重性をもっています。有名な「藤原」姓も、もともと大和国の藤原の里を中臣鎌足が下賜されたので、藤原鎌足となったことからはじまります。その後も、古代の「氏」の藤原の子孫の苗字と、藤原という地名に住んでいて藤原姓となったものとがあり、地名姓の方が多いといわれています。 足立、安達の苗字についても地名姓であったことは、まちがいないですが、同じ発音から両姓が混同されて使用されたとしか考えられない場合もあったのです。 中世丹波の土豪。「丹波志」には、武蔵国足立郡領家職本主であった藤原遠兼の子遠元が、足立郡地頭職を拝領して足立氏を称し、その子遠光が丹波国氷上郡佐治郷を賜って下向土着し、一族が丹波に繁延したという。佐治郷の山垣城を居城とし、鎌倉中期の禅僧遠谿祖雄は山垣城主足立光基の子、室町、戦国期にもその子孫が丹波の国人として活躍したが、荻野直正に圧迫され、ついで明智光秀の丹波制圧にあって滅ぼされた。遠坂城の安達氏も足立氏と同族という。 足立郡は、現在の埼玉県南東部と、東京都足立区全域にあたる地域であります。また、安達郡は福島県の中央部ニ本松市中心で、東北本線には「安達駅、二本松駅」があります。足立については、武蔵国分寺に使用されていた古瓦に「足」の字があるものが出土しています。「続日本紀」にも足立郡名がでていますし、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂が武蔵の国造になったとあり、「西角井系図」には西角井家が大化改新以来代々足立郡の郡司の家であったとあります。 一方の安達については「延喜式」に安積郡から分立した「安多知」が「安達郡」となったとされています。仁平元年(1151)に惟宗定兼が本領主として太政官厨家に安達郡を寄進しましたことから「安達荘」が成立していますし、その安達荘地主職は、定兼から小槻(壬生)隆職に伝えられ、代々壬生家が伝領されています。建武3年(1336)に北朝の光厳上皇より壬生匡遠に安達荘の領有が安堵されていますので、のちに二本松に本拠をすえた畠山氏が奥州管領となるまで壬生家の支配地でありました。 この安達郡の安達姓は高麗系安達氏と坂上姓安達氏があるといわれていますが、「尊卑分脈」にのせられています小野田三郎兼盛は奥州安達郡に住んでいたので、その子孫が足立郡に来て安達氏を名のったというのは無理があり、鎌倉御家人の安達氏はもともと足立氏であり、陸奥国の安達郡とは無関係だったということです。 鎌倉御家人の安達氏は北条氏との姻戚で栄えましたので、足立氏と区別され安達の字が使われます。安達景盛の時代に秋田城介となり、その職は世襲されましたので、城氏ともよばれています。また安達泰盛の時代には、引付衆、秋田城介、評定衆となり、更に弘安5年(1282)には陸奥守に任ぜられています。このことから陸奥に関係のある人物として、安達氏の出身を陸奥安達郡とされたか、霜月騒動で権勢をふるっていました泰盛を、内管領平頼綱が策謀によって全滅させてしまいますが、安達氏の出身まで陸奥国にされてしまったということなのでしょうか。安達氏は足立氏だったのです。
VOL.57 2001.11.9
関ヶ原の合戦と足立氏
関ヶ原の合戦は天下分け目の戦いと呼ばれています。一方の主将はいうまでもなく有力大名からなる五大老の筆頭であります徳川家康であり、豊臣秀吉なきあと徳川政権樹立を狙いました。これに対したのは五奉行の筆頭であります石田三成で、豊臣秀吉なきあとの豊臣政権の維持と自分の地位を守ることにありました。 東軍は7万4千、西軍は8万2千の兵数で戦いは始まりましたが、西軍の戦闘力は3万5千だったといわれています。西軍はこの兵力でもちこたえていましたが、西軍で傍観していた小早川秀秋など1万7千が東軍について奇襲してきましたので西軍は敗退しました。 千葉県安房郡に里見氏がいましたが、里見義康のときに豊臣秀吉の配下となり、関ヶ原の戦では徳川方になり生き伸びた大名です。この里見氏の家臣団の中に、慶長11年(1606)に知行50石を与えられた足立小右衛門、慶長15年に知行150石を与えられた足立隠岐、小納戸衆、小姓頭で蔵米百俵を与えられた足立庄三郎がいました。領主が豊臣家臣から、徳川方についたので関ヶ原の戦では勝組になり大成功だったのです。 ところが主君の里見義康の嫡男忠義が、小田原城主大久保忠隣の孫娘を迎えて正室としたことから大久保忠隣の改易に連座して、里見一族は滅亡してしまいます。慶長19年のこの事件は、忠隣が老中に就任し権勢をふるっていましたが、家康や秀忠に無断で、養女を山口重信に嫁がしたことから、一族は滅亡したのです。 天正6年(1578)に尼子勝久のこもる播州上月城攻めに宇喜多直家の家臣で足立太郎左衛門が大活躍しています。宇喜多氏は天正元年に岡山城を築き、備前、美作を領する大名ですが、秀吉に帰順していました。直家歿後嗣子宇喜多秀家10歳が父の遺領を相続しますが、足立太郎左衛門は千石を与えられ重臣として参画しています。 |
先祖の生き方を学ぼう
丹波 妙法寺 奥座敷 五月人形 2002.4.28
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VOL.58 2001.11.16
足立氏と経験科学
江戸時代の足立氏は各地で活躍しますが、その数が増えると同時に世襲の封建社会ですから、武士として成功者となったものは少なく、むしろ実学面で活躍した人が多くいたようです。 寛永の鎖国以後、外来文化の流入は制約されていましたが、農学や、鉱・工業などの産業技術にすぐれたものが生まれます。天文学、暦学、測量学、本草学、医学などの自然科学や、人文科学でも体験を通して蓄積された知識を土台に、儒教的訓詁学を離れて経験科学がさかんになって来ましたが、足立氏の中にも実学で活躍する人がいました。 大阪の医者で足立伊右衛門がいましたが、その養子となった足立信頭が有名です。左内、子秀とも号していたようですが、はじめ大阪御鉄砲奉行の久留勘右衛門組の同心をつとめていましたが、麻田剛立の門下に暦学を学び、寛政8年(1796)には、幕府天文方であった高橋至時(梅軒)の下役となりました。 また、足立信頭は語学に優れていまして、文化10年には松前にいき、ロシア語を学び、文政元年には異国船の通弁をしています。ロシア語の学習は、文化8年に捕えられたロシア海軍中将ゴロウニンから学んでいます。 足立長雋(ちょうしゅん)は薩摩藩の藩医足立梅庵について漢方医学を学びましたが、梅庵に望まれて養子となり、足立姓に改めます。そして吉田長淑についてオランダ医学を研究しています。 安達幸之助は加賀の金沢藩士安達の養子となった人物で、江戸藩邸に在勤して、オランダ語を村田蔵六(大村益次郎)に学びました。万延元年(1860)幕府の講武所で西洋兵学を教え、のちに帰藩して藩校の教授となっています。大砲鋳造に従事しますが、大村益次郎に用いられ、京都伏見の兵学校で兵学、英語を教えていましたが、大村の身がわりとなり刺客と闘って46歳で死んでいます。 こうした足立氏の動向をみると幕末維新に日本の将来のため一命を捧げて、自己の使命に生きた人物が多くいたのです。足立遠元以来の鎌倉武士の品格のある人がいたるところに居たようです。
VOL.59 2001.11.23
名字と苗字
足立家は武蔵の国足立郡に祖父の代より住んでいました足立遠兼を元祖としていますが遠兼は源義朝の家人でありましたから平安末期ということになります。 中世の武士の名は、自分が支配した名(みょう)とよばれている領地の地名を名字として使い、その名字が主従間で広まり、一族の結束をかため、その一族が分裂したり、移動等により他の地方に拡大されたのです。 一般に武士は、有力農民が新たに土地を開発し、開発した土地に地名をつけましたが、この名前のついた土地が「名田」であり、かなりの面積をもちましたので、これを自衛する必要から武装して武士が発生しました。この武士の一族のものを家子とよび、従者たちのことを郎党とよびましたが、武士たちは、自分の支配地を拡大するため、家子、郎党をひきつれて戦闘集団となり争いをくりかえすようになります。 そして権力を世襲するようになり「家」が成立したのです。「家」が成立するまでの社会は、夫婦生活をともにすることなく、夫が夜になると妻のもとに訪れ、夜明けに帰っていくという「通い婚」が一般的で、女性は7、80人の血縁集団の中で生活しており、女性が出産すると、その子は誰の子ということに関係なく、その集団の中で養育されました。 ところが、武士が発生しますと子供は特定の父の後継者となり、その財産、地位を受けつぐようになり、女性の嫁入婚が成立します。父を家長とする「家」ができ、家は名字や家紋、先祖を重視するようになり、同族意識をもって、同族の長や、本拠地の名字を共通にする同族集団ができます。 江戸時代に苗字帯刀は武士の特権であり、武士でないと苗字の使用を禁止しました。しかし、百姓・町人も私的に先祖伝来の名字は使用しており、公的文書以外の使用は禁止できなかったので使われていたのです。また村役人として業績のあったもの、孝行とか学術的に奇特のあった人、多額の御用金を提供した町人等に苗字帯刀を許可しています。 江戸時代は、武家には系図が必要でどの家も系図を備えようとしていました。この傾向は元禄の頃から農家や商家でも、武士の家系図をまねてつくるようになりましたので、「系図の売買」や「偽系図」売りが活躍するようになります。
VOL.82 2002.8.24
生き方を歴史に学ぶ
世の中の変遷が激しい時代になりました。地球の誕生が46億年前、人類が誕生したのが500万年前といわれていますが、人間が人間らしい生活をはじめたのは3000年前で、人口が増えるようになったのは200年くらいなのですが、この100年間の変化は歴史上かつてなかったものであり、現在はあらゆる分野で10年前には考えられないような現象が起っています。 農業中心で生活していた時代は大家族であり、家長も子供も共に田圃で一緒に働き、共生して、農村の中では家族は同志でありました。それが地方から出て都市労働者となり、家族意識はなくなり、核家族化しました。そして現在の社会では単身志向で家族をつくらないものが増え、離婚も多く、子供も少なくなりました。 成熟社会の現在では、大切なのは個性であり、創造性、独創性なのですが、夫婦共かせぎで、学校まかせの子育てになり、学校もできる子供を伸ばすこともせず、できない子供を特訓することもしない競争原理を全面的に否定する「負けた子がかわいそうだ」という中途半端な公教育がまかり通ってしまっています。 老年になったものにとって、子供を育てるのに苦労した人も、独りも子供を育てなかった人も同じように養老院か病院で独り淋しく死んでいきます。昔は子供がいたら老後は心配しなかったのですが、現在では老人が40歳の子供の面倒をみるとか、孫を老人が育てていることも多くなりました。社会保障は権利であり、「快適な生活を保障する」ことが国や市町村の責任であり、老後の保障もあたりまえという考えの人が増えてきました。 一生を豊かに生きるには自己教育をし続ける以外なく、生涯教育、生涯学習が大切ですが歴史を主体的にとらえることにより、歴史認識をもって生きることが「心」の時代には必要不可欠です。高齢化社会では、負担できる人から取って必要な人に分配するやり方に限界があり、できないことはできないという時代になったのです。 もう一度先祖の生き方を学び、何が大切かを考える一助になればと「足立ものがたり」を書きました。 以来実に多くの研究家と交流させて頂き、御好意で提供されました資料を基礎として足立氏をまとめております。御縁を頂いた諸先生に感謝申します。
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