竹内正道著作集

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ようこそ家族の源流 足立氏ものがたり丹波 妙法寺仏教と日本人雑著仏涅槃図 命尊筆メディア情報

 

第一集

家族の源流 足立氏ものがたり

The Story of the ADACHI Family Origins


丹波 青垣町小倉 妙法寺遠景 天文22(1553)年 足立基則創建   2001.8.22

  

心の時代といわれています。日本人のバックボーンとなっていた「自利利他」の伝統思想、
 「自分の生命を犠牲にしても子孫のために」という先祖伝来の生き方、家族の源流を 
 足立氏にみながら新しい世紀にふさわしい家族の創造を考えましょう。 

                       竹内 正道

 

C O N T E N T S

 

    第一章    家族の源をたずねて

はじめに  家 族  もろい核家族  理想の家庭  人間関係   先祖のこと

先祖供養 
    

    第二章    足立の元祖をもとめて

姓 名  青垣町と足立姓  青垣町の足立史跡  家の永続性  足立氏ふるさとの風土

武蔵武芝  小野田三郎兼広(兼盛)  足立遠兼(小野田六郎)
    

    第三章    鎌倉時代の足立氏

足立遠元    源 頼朝   比企尼の一族  足立藤九郎盛長  頼家と実朝

足立遠元の子孫  鎌倉時代と宗教  北条氏と足立の関係  足立藤九郎盛長の子孫

もののふの道  源氏将軍たちの信仰  北条泰時  時頼の信仰  安達泰盛と時宗

弘安合戦と平禅門の乱
    

    第四章    足立氏列伝

足立遠政  後醍醐天皇と丹波の足立氏  遠谿祖雄  足立宗次入道左衛門尉基高

南北朝時代の足立氏  足立権太兵衛基則  足立基則の子孫  足立氏と赤井氏

足立正興とその兄  足立氏忠臣蔵  足立権九郎基兼  足立重信  足立藤九郎保宗

北九州の足立氏  南九州の足立氏  中国地方の足立氏  岐阜県郡上の足立氏

三河の足立氏  足立氏の家紋  姓氏大辞典と足立氏  二つのあだち郡

関ヶ原の合戦と足立氏 
    

    第五章    先祖の生き方を学ぼう

足立氏と経験科学  名字と苗字  生き方を歴史に学ぶ

 

贈呈先  東京都立中央図書館  足立区立郷土博物館

国立国会図書館  丹波市立中央図書館
 

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The Story of the ADACHI Family Origins


皇居外苑 楠木正成像 1897(明治30)年 高村光雲作  2003.3.10

 

 

第 一 章

家族の源をたずねて

 

 

VOL.1     2000.10.13

 

        はじめに

 

 家族のあり方がいま大きく変わってきて、日本の社会を根底からゆり動かしています。「家族の多様化」とか「家族崩壊」さらには「家族破壊」という言葉がキーワードになっています。これまで経験しなかったような不気味なことが相ついで起きています。新潟の少女誘拐、名古屋の中学生の5,400万円恐喝、豊川の主婦殺害、佐賀のバスジャックなど、毎日何か異常な事件が続出、それを取り締まる警察の不祥事、わがままいっぱいでルールを守らないことが多すぎる世相となりました。

 少年事件が起きるたびに家庭の父性の不足、父親の存在がなかったり、母親の母性の歪み、離婚による不在とか溺愛、無神経、優しさの欠如とかが原因とされています。ユングが母性の本質は「慈しみ育てる」面はあるけれども「狂宴的な情動」と「暗黒の深さ」があり、すべてを呑み込む恐ろしさがあるとしていますが、その悪い面が表面化した事件が多くなってきました。その原因は、性別役割分担をした夫婦と未婚の子からなっていた家族が変わってきて、晩婚化や結婚しないもの、子供をもたない夫婦、離婚の増加などから普通の家族のあり方が変わってきたことによります。

 慣習や親の意思で結婚するのではなく、当事者が幸福を追求し、恋愛や性格の一致などで配偶者えらびをし結婚して家庭をつくる核家族は、義務や伝統にしたがうよりも個人の自由と幸福につながるとされました。しかし、感情面で結ばれるということは「結婚したいから結婚した」のであって「愛がなければ離婚」ということになり、家族の不安定さの原因となります。アメリカでは結婚した夫婦の半数が離婚するといわれていますが、最近の日本でも29万余が毎年離婚しています。
 「子はかすがい」といわれており子供が家族の軸となり要でありましたが、家の永続性を願う必要がなければ、子供よりも夫婦の愛情が中心の家族となり、親の離婚にまきこまれてしまう子供も多くなっています。

 「自分たちの幸福な家族」をつくるのに、愛情が家族の絆になってしまうと、愛情や情緒というあやふやなものが中心となり、家庭は「幸福」を消費する自閉的な場となり家族は弱体化しました。男性は家庭を「幸福」にするため給料をもち帰ることで愛情表現をし、妻は子供の育児や夫のために家事をすることが愛情表現となり、自閉的な空間の中で育児の責任や家事をひき受けた母親が育児ノイローゼや児童虐待をしたり、さらに高齢者の介護を抱え込むと愛情どころではなくなってしまうということもあります。

 戦後物の豊かな生活、高収入を得るため地位の高さなどを求める欲望に人々はとりつかれ、それを満足させてくれる夫であり、子供の学力、進学を求めました。しかし、それを獲得できるのは恵まれた少数のものだけであり、その欲望によって心の充足は得られなくなったものが多くなりました。物の豊かさは、家電製品、家具、車の購入等であり、それを満足さすと、なにものにも束縛されない自由を求めることが近代的な生活の仕方という考えもでてきました。
 「結婚して子を育て、親の面倒を見て、自分も老いたら子に面倒をみてもらいたい」と願う人が少なくなったのです。

 少子化がすすんでいます。20世紀は毎年83万人ずつ人口増加をみましたが、21世紀は年平均60万人ずつ人口が減少します。核家族が増加し、2,746万世帯となり、単独世帯も1,227万世帯となりひとり暮らしが増えています。自分の好きなように生活している夫婦に育てられた子供はきままで躾などできていませんし、親が家庭にいない希薄な関係の子供が多くなっています。子供の面倒をみるより自分たちが遊ぶこと、楽しむことを優先させている親も増えています。

 少年非行の問題、家族の崩壊こそが21世紀最大の課題で「心の豊かな社会」を創造するのならさけられない問題です。われわれは「現在や未来の人々を幸せにする」ことを目標にかかげた生き方、他者の喜びを喜び、他者に役立つことをする自分に生きる価値と存在理由をもつという「心の豊かな社会の創造」につとめたいものです。男性が弱くなったといわれていますが父性の原理をみなおす必要があります。

 「家族の源流」を考えるとき、「家の制度」がいつ始まったかを問題としなければなりません。父性の強かった家父長的「家」は鎌倉時代に成立したというのが一般的です。「家」は武家社会成立の中で発生し戦国期から織豊時代に発達したのです。家の先祖のことは寺院の過去帳に記録されていますが、寺院のほとんどが荘園制の崩壊から郷村制の成立期に草創されています。つまり応仁の乱(1467)頃から、江戸幕府の宗教統制が強化される寛文5年(1665)の200年のあいだのことです。

 鎌倉幕府を創立した足立氏の歴史を調査して、父性の原理としての家族の源流をみていき、「家の永続」を大切にした生き方を追求していきます。

 

 

                VOL.70         2002.7.25

 

        家    族

 

 家族についての考え方が、今大きく変化してきています。ライフデザイン研究所(東京)の生活意識調査では、従来の家族観を維持しようとする層と、家族の多様化を積極的に認めようとする層にわかれるといっています。スウェーデンやデンマークでは出産の半分が婚外出産でイギリスやフランスでも30%以上がそうであるというのです。未婚のまま子供を産み育てる新しい生き方をする女性が増えています。

 戦前生まれのものは、これまでの家族制度があたりまえとして生きてきましたので、娘や孫娘が結婚もしないのに出産することにはとてもショックを受けるのです。
 戦前までの家族制度は、家父長制家族であり、「家」の制度でありました。「家」というのは、家族の構成員ばかりではなく、過去の先祖や未来の子孫までを含めたものであり、その代表が家長でありました。家長は、戸主権と財産の所有権を持ち、それは直系の長男に相続されて、その長男は、その妻や子とともに親と同居して生活がいとなまれていました。
 したがって家族は個人の立場よりも「家」の存続・発展が重視され家運の隆昌が最も大切にされていましたので、結婚も個人の問題ではなく、家と家との結びつきで、家を代表する家長の承認が必要でありました。

 新しい「民法」によって「家」制度は廃止され、一組の夫婦と、その未婚の子供だけでの家族で「核家族」があたりまえになりました。結婚は当事者の合意でなりたち、結婚によって新しい戸籍がつくられ「家」の相続は不要で、財産は配偶者と子どもに分割して相続し、扶養の義務も家族の構成員によって平等に負担するようになりました。そして、いまこの核家族すらが変化をとげて、配偶者のいない未婚の母子家族が増えているのです。

 このように家族観がしだいに変化すると、本来もっていた家族の機能はどうなるのでしょうか。家族は人間にとって重要な機能をもっていることはいうまでもありません。
 特に家庭は新しい世代を生み育てる場であり、消費生活をする場であるだけでなく、人間にとって最も大切な精神的なものをあたえあう場でもあります。ストレスの多い社会生活にあって、精神的な安定と生活意欲を回復させるいこいの場は家庭しかありません。また青少年たちの人格の基本的なものは家庭ではぐくまれます。単に子供だけでなく、おとなにとっても人格をはぐくむ場が家庭です。

 封建的な「家」に対する批判はきびしくなされましたが、民主的な「核家族」が家庭の大切な機能と人格形成にどれだけ役立ったか疑問視されています。家庭の教育力の低下、放任主義による少年非行、安易な結婚と離婚など家庭の崩壊が大きな社会問題となっています。
 それどころか、離婚は毎年増加しており、離婚すると簡単に再婚しにくい傾向もあり、高学歴の男女は結婚そのものに慎重で要求水準がたかく、晩婚化がすすんでいますし、結婚しても、子供を欲しがらないという夫婦もあります。そして、結婚しない男女も増えていますので自分の家族をつくらないまま生涯を終えるものも増加しています。少子化が進み、人口も減少し、家族の数そのものが衰退しています。

 日本の高校生はひどく活力を喪失しているとの日本青少年研究所の報告があります。「学校に誇りを持てず、勉強離れも進み、積極性を失い、自分はだめな人間だと思っている」と悲観している高校生が73%もいるというのです。学校生活に張りがあると感じている生徒が少なくなったようで自分自身を貶める自己否定型の高校生が増えています。
 中学生に対するアンケート調査で、日本の国に誇りをもっているのは24%、自分の将来に希望をもつものは29%と報告されています。高卒の32%、大卒の23%がフリーターで職業をもっていないものが増加し、世の中と自分が結びついていない浮遊感が増しているといわれています。
 社会に対する連帯意識が希薄になっていますが、これは高度経済成長とその後の異常の状況の中で核家族化が進展したことによるものです。家族に対する連帯感をもたないものが社会や、国に対して連帯感をもつはずがありません。

 

 

                VOL.71         2002.7.29

 

        もろい核家族

 

 人の幸福・不幸にとってもっとも関係が深いのが結婚で、愛しあい、ともに生活し、子供の養育をともにしてその成長を願うのが家族です。気のあった2人が愛情で結ばれ、信頼しあい、一緒に暮らし、子供が生まれるとその養育につとめることが家族の前提です。好きあった男女が生活をともにし、気楽に2人の世帯をもって、自由きままに暮らすためには「ババ抜き」は必要条件で、経済的に恵まれればしあわせ一パイということです。
 昔の結婚は家同士のとりきめで、見合いで家庭にはいり、親につかえ、配偶者につくし、その家風にあうよう気をつかって結婚生活を送ったのですが、核家族となった現在では「愛」と「お金」が家族生活を継続する前提となっています。

 結婚して家事の負担がふえ、それに出産・育児などで孤立無援になった女性の負担は大きく、特に育児という未経験なことは「愛」や「好き」だけではどうにもならないことが多いのです。そして共稼ぎをしなければ生活維持ができないとなると、夫の能力のなさにイライラしてきます。
 夫の側でも「ガマン」しているのですが、洗濯はクリーニング屋、食事は出前か外食、料理してもインスタント食品ばかり、子供は託児所、勉強は塾まかせで子供の世話をしない妻との関係が希薄なものになり、仕事、仕事で家にはあまり居なくなってしまう状況です。

 親が親の役割を果たさなくなったダメ親によい子が育つわけはなく、子供なんか産まなかった方がよかったと思っている母親も多いです。「手抜きした母親」に育てられ、「社会的動物として一人前に」育てようとしない父親のもとで育った子供が、家庭内暴力をふるったり、友達の人格を尊重できない子供になったとしても本人だけの罪ではありません。

 結婚を物心両面で「よりよい生活」ができると考えていた男女にとって不幸の原因は「愛の欠如」と考えてしまい、愛がなければ婚姻の継続は無意味となるのです。嫌になったから離婚はあたりまえとして「無過失離婚」がふえています。
 女性が子供をもつ必要はないと思うようになると結婚する必要もないし、結婚しても同居して苦労することはないということになります。結婚しないものが増えてきましたし、結婚したくてもできないものも増えてきました。そして結婚しても子供はほしくないと思う夫婦も多いようです。

 若い時は核家族を当然と考えていたものも老齢になると直系家族を願っているものも多いです。自分の両親はほっておいて、自分は子や孫と共に生活をして老後を送りたいと思っているのです。特に少子高齢化社会となり家の存続ができなくなってきましたので、よけいに家の後継者がほしい老人がふえ、先祖の祭祀のことも気にするようになるのです。

 子供をもつ必要はないという考え方のうらには、子供に負担がかかり生活に余裕がないという理由によるものや、パチンコに夢中になって子供を死なせたように、子供の面倒を見るより自分が遊ぶことを優先させてしまった親の姿がみえます。豊かな社会の日本の貧しさです。家も滅び、人口も減って社会も滅びていくのでしょうか。

 少子化現象は女性の晩婚で出産数が少なくなっていることが一番大きな原因で一人っ子が多くなっています。一人っ子は親の愛情過多で過保護になったり親のペット化してしまい人との接触に慣れず、人間関係を希薄化させる原因にもなっています。
 40年前の経済成長期に田舎の青年たちは仕事を求めて大都市に出て、20歳代で所帯をもちましたが、この世代が定年になっています。田舎から都市に出たこの世代が子供や孫と一緒に暮らす3世代同居を増やす努力をして核家族化をやめることができたら、子供の教育によい結果がでると思われます。

 

 

                VOL.72          2002.8.3

 

        理想の家庭

 

 仏教は家族のことをどのように考えていたのでしょうか。仏教は家族制度の伝統のうえにたって、社会倫理の基本的な考え方、すなわち平等と慈悲と報恩を実現しようとしています。
 「親を尊敬すること」「親に仕えること」は子のなすべき務めとしてインド仏教以来強調されていますが、仏教は世俗的な孝行よりもっと高い境地を目ざしています。
 日蓮聖人が「一切は親にしたがうべきであるが、仏になる道は、親にしたがわないことが、孝養の本である」と主張されていますように、仏教本来の出家が、世間的な孝行より優位にたつことで「孝養の本」であるというのです。

 原始仏教聖典に釈尊は「子どもたちが、人々のよりどころである。そして妻が、最高の友である」といわれています。夫にとって妻は最高の友であり、子どもがよりどころであるのですが、そうした幸福な家庭をいとなむための教えとして『六方礼経』があります。それには、夫が妻に「仕える」のに対し、妻は「夫を愛する」こと、夫婦とも「不邪婬戒を守る」こと、夫は妻を「尊敬する」こと「軽蔑しない」こと、妻に「権限を与える」こと、「物質的にも愛情を示す」ことが説かれ、妻には「家事をよく処理する」こと、「集めた財産を守る」こと、「なすべきすべての事がらについて、巧妙にしてかつ勤勉である」ことが説かれています。
 さらに夫婦の理想像は「夫婦とも信仰あり、親切であり、身を慎んで、法にかなって生活し、互いにいとしいことばを語るならば、福利はいやまさり、平安な幸せが生まれてくる」と説かれています。

 親子の関係については、子に対する親のつとめとして、「悪から遠ざけ」「善に入らしめ」「技能を習学せしめ」「似合いの妻を迎え」「適当な時期に相続させる」こと、また子の親に対しては「親に養われたから親を養う」「かれらのために為すべきことをしよう」「家を存続しよう」「祖霊に対し供物を捧げよう」というつとめを説いています。
 報恩が大切で、親に対する奉仕というのではなく、自らの自然な気持ちで自発的になされることが説かれていて、仏教の報恩思想から、先祖より受けた恩恵にも感謝の誠を捧げるのは当然とされています。
 原始仏教経典にすでにこのような家族の倫理、夫婦の倫理が説かれているのですが、われわれ現代人の家族のあり方を考えるとき、教えられることばかりです。

 平等思想が普及して、人間の最も大切な上下関係が喪失してしまった結果、少年による犯罪が増加の一途をたどっています。家庭での幼児期からの躾が大切なことはいうまでもありませんが、あまりに教育能力のない親が多いですし、自分自身の倫理、道徳的心情または信念をもたない親が多いことに問題があります。
 親子の関係は友人のような横の関係ではなく、親は親、子は子であることを再認識すべきです。
 個人主義や自由主義を自己流に理解して、利己主義や放縦主義に流され、自己本位で身勝手な生き方をするものが増えています。

 いつの時代でも、どんな社会でも伝統や社会組織の中で個人は生きているのですが、過去から伝えられたものは古くさいし封建的であるとして無視し、自分の家族や親戚、あるいは近隣とのつきあい、職場のつきあいも煩わしいとして参加せず、身勝手で自由に生きることが望ましいと思うものが多くなってきました。最も信頼できるはずの家族を軽視したり無視して生きることが自由な生き方であるように錯覚して、自己流に足かせのない場所に身を委ねる若者が多いです。
 家族の絆が切れてしまったことによる社会問題が多くなっています。生涯独身、未婚同棲、親子虐待、不登校、子供の非行、家庭内暴力など信頼できる家族不在の問題が多くなってきました。

 

 

                      VOL.5     2000.11.10

 

        人間関係

 

 人の一生は不思議なものです。人は生まれようとして生まれてきたのではなく、親のもとに生まれていたのです。そして、養育され成長しますが、与えられた生命を大切に生きるとしても、自分では予測できない死がまちかまえています。親の精子と卵子の結合で生命は誕生するのですが、数多い男女のなかからどうして二人は結婚し、子供の親となったかは不思議な縁としかいいようがありません。

 「袖ふりあうも他生の縁」といいますので偶然でなく、すべて前世からの因縁によるのかもしれませんが、まことに不思議な縁により結婚し、「子宝に恵まれ」て親となり、新しい生命を養い育てます。「子供を作る」などといっていますが、子供は親の意思どおりになるものではなく、「授かったもの」であり決して親が自由に支配できるものではありません。そして、親にも両親があり、その両親にも親がありますので、2人、4人、8人と親の縁が増え、そのいずれが欠けても自分は存在し得なかったということになります。その数は先祖を遡っていきますと限りなく増加し、鎌倉時代まで遡って先祖を探すということになりますと億の数の人との縁につながることになってしまいます。

 このように人は無数の縁によって生まれ、成長し、社会で生活して生きる存在で、縁によって生かされていますので、仏教では「縁生」といっています。「死」によって消滅するはかない存在ではありますが、生かされて生きていることを知り、有縁の人と相互に扶けあって生きる以外の生き方はありません。そして同時に、あらゆる人は一人として同じ生命をもつということのない個性的存在でありその意味で、一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ存在でありますので、自分の一生は自分で責任をもつということになります。

 人は、はかり知れない無数の縁によって生命を与えられていますので、自分は「生きている」というより、「生かされている」という自覚のある生き方が大切なのです。
 『無量寿経』でこのことを「人は、世間愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。行いをおうて苦楽の地に至り趣く、身自らこれをうく、代る者あることなし」と述べていますが、無数の縁によって生命が与えられ、生かされている、唯我独尊としての自己であることを自覚して生きることが大切であると教えています。無数の縁と無量の恩恵をうけて生きて生かされている自覚があれば、先祖を想い先祖を語ることになるのです。

 

 

                                 VOL.6     2000.11.17

 

        人間関係 2

 

 ところで最近、先祖と子孫をつなぐ最も大切な結婚について考え方が変わってきたといわれています。男女ともに結婚離れが静かにすすんでいるといわれています。若い男性にとって家事・育児を分担し、家計を満足させ、場合によっては少子化の現実から妻の両親の面倒をみなければならなくなるようでは、結婚は束縛でしかないというのです。また女性にとっても、独身時代の自由で楽しい生活と消費レベルを落としたくないし、自分にふさわしい相手でないと結婚したくないのです。
 そして結婚しても添い遂げるべきだと思っている人が少なくなって、子供がいるとしても、愛がなければ離婚を恐れないというのです。半世紀前までは、結婚の目的は「家の子孫」を産み、家の恥にならない後継者を育てることにありましたが、現在の女性は愛する人と一緒にいたいけれど、束縛されるのは嫌だから別居して恋人同士のような生活ができればと願っているものが多いといいます。

 子供の養育についても、いろいろの変化がみられます。最近の子供は「社会のルールや道徳心に関して、家庭で親から躾られていない。アメリカ・イギリス・ドイツ・韓国の子どもと比較して、非常に意識が低い」とか、「友人を思いやるなどの友人関係の希薄さ」が感じられるとかいわれています。「人間関係が希薄」な家庭で、子供の躾などできませんし、学習も基本的な生活慣習も学校まかせで、学校で教師に気に入らないことをいわれると反感をもつようになります。
 希薄な親子関係の子供が、希薄な友人関係となるのは当然で友人を思いやる心は育ちません。やはり親は「やるべきことはやれ、わがままはゆるされない」としつけ、機会の平等な社会で生活するのだから「努力することをおしまない人になれ」とさとし、「絆」という人間関係に支えられて生きられる社会的動物であることを教育しなければなりません。誇りもなく、自己責任の意識をまるでもっていない利己的な親から反社会的な行為をする子供が育ったとしても、本人だけの責任ではありません。

 明治の初期に日本にきましたアメリカの動物学者エドワード・モースはその著書の中で桜見物の群衆が温和で礼儀正しく、落書きやゴミがないのに驚いて「日本ははるかに文化の程度の上の国」としていますし、「日本人はいかなる人間に対しても、人間の価値、お互いの価値を認めあう」と書いていますが、現在の日本の現況をどのように評価するでしょうか。日本人が長年かかって培ってきました「相手を思う心」を再生しなければならないと思います。そしてその思いは、生きている人だけではなく、過去に遡って先祖を想うことへと発展します。

 伝統的な日本人の美徳とされていたものがどんどん失われています。戦後の工業化社会の進展と高度経済成長の中で、人間として最も大切であったものすら失われてしまいました。今の社会で、学校教育の歪み、家庭内親子関係の崩壊、社会情勢の変化などから、自分に自信がもてなくなり誰かの指示がほしい人が増え、これがカルト宗教に入信する原因となっています。仏教は自分の心に安らぎを与え、相手に思いやりをもてるよう先祖供養を通じて「慈悲心」を教えてきました。

 

 

                VOL.73          2002.8.5

 

        先祖のこと

 

 祖先崇拝は日本人の日常の中にあり、道徳的な規範の根元として永い間日本人の伝統的な生活信条となっていました。
 「先祖さん」をまつることは子孫のつとめであり、先祖をまつることで日々の生活の平安をさずけてもらうと信じているものが多いのですが、神でも仏でもない先祖さんというのはどのような霊なのでしょうか。

 このことについて柳田国男氏が「先祖の話」を書いています。それによりますと、先祖という言葉は二種類の意味で使われていて、「家の最初の人ただ一人が先祖であり、古い時代に活きて働いていた人のこと」で自分達の家を創立し家の基本をきずいた人であると思っている人と、「先祖は祭るべきもので、自分の家で祭るのでなければ、何処も他では祭る者の無い人の霊、即ち先祖は必ず各々の家々に伴うもの」と思われているものとであります。
 もう現在ではそんなことは云わなくなっていると思いますが、昔は早く立派になってくれという代わりに「精出して学問をして御先祖になりなされ」といって子孫をはげましていたといわれます。これは遠い昔の先祖ではなく、家を興隆させたり、分家して独立する能力をもつ子供に将来を託するということで、古い先祖ばかりが先祖ではなかったのです。

 家の根を太くたくましくするため長子家督相続をすることにより、長男は家代々の先祖を祭り、まつりごとや法事を盛大にすることがつとめであるとする家と、子供達に分割相続をさせてどの子も幸福にしてやりたいとの考え方は昔からありました。
 次男以下は分家させて新しい家をたてさせ先祖になればよいというのです。更に能力があり独立できるのなら長男が家を出て、次男以下が本家をつぐということになり「先祖さん」になることを期待したようです。

 人は死後祭ってもらいたいという念願、死後も敬愛されたいという願いがあります。そこで子孫は祭る先祖を限定したわけで、本家の先祖は祭らなくてもよく、祭られない先祖をどこかで祭ることはしてはならず、正統嫡流が、先祖伝来を祭る資格があり、分家にはその資格がなく、分家の最初の人を先祖とすればよかったのです。

 このことは藤原氏の子孫だという家系がたくさんありますが、藤原氏であったというきめてのない系図が多くあります。藤原氏自体も先祖は天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という神様ということになっていますが、これを先祖とはしていませんし、初めて藤原姓を賜った鎌足を祭っている家もなく、鎌足の孫の男四人の系統のうち藤原北家の房前を先祖にしているといわれています。
 関東では山蔭流・魚名流の系統の家が多く、魚名流のうち田原藤太秀郷を祖先としている家がもっとも多いそうですが、その本家がどこにあるかもわかりません。
 系図の上ではそのようなことになるかも知れないが、私の家はその支流の支流で先祖は江戸期の人を祭っているというのがほとんどで、系図も鎌倉期より続いているものなど考えられず、江戸中期頃のものが古い方で、あとは後世の人が自分の家の家紋が伝承した話をもとに、系図をつくり子孫に伝えたものばかりです。

 このように家というものも、人の一生と同じで天寿のようなものがあり、古い家系が消滅して、分家が勢力をもち、その分家もいつか消滅して、分家の分家が栄えて、それもいつの日か消滅するという歴史をくりかえしています。
 家を永続させたいということも古来よりの願いでありました。「積善の家には必ず余慶あり」といわれ、善行を積み重ねていく家には、必ず後の子孫まで慶びが伝わっていくという意味ですが、「人知れず徳を積んだ者には、天が幸福を報いとして与える」といわれています。陰徳というのはめだたぬよう、きわだたぬよう生きて徳をつむということで、これが家を永続させたのかも知れません。

 「家」の制度は鎌倉時代の武家社会で発生し、織豊時代から江戸初期にかけて発達し、広まったとされています。現在ある寺院の大半が、郷村制の成立とともに創立されていますことと関連しております。武家をはじめ、農民や町人による家の形成により、その祖霊を祭る寺が建立されていったのです。
 日本の仏教は家の成立により、その先祖崇拝とともに発展しました。

 先祖崇拝が「家」の成立と深いかかわりをもったことはいうまでもありません。先祖崇拝は古くから伝えられている「先祖の祭り」で、先祖、祖先、祖霊ともよんで「先立てるミタマ」を祭ります。父の父を「祖父」、その先代を「曽祖」、さらにその先代を「高祖」ともいい、さらに古い先祖を「太祖」ともいっていますが、家の直系の先代すべてを祭ることが伝承され、家長の責務でありました。

 一般に農耕民族は、死後の生活を信じ先祖を崇拝する習俗をもっています。農耕は種まき‐発芽‐開花‐結実‐枯死してもまた種から再生しますが、同様に人も誕生し‐成人‐結婚‐子供の出産‐老化‐死となるので永遠に回帰し再生すると信じられました。そして山、森、樹に祖霊がやどり正月や盆には先祖さんが帰ってくるとされています。しかし、この先祖とは別に、家の連合体である同族の共通の先祖を根本先祖と考え、神として祭りました。その根本先祖というのは、家父長的「家」の制度が確立した鎌倉時代の武家社会の中で発生したといわれています。

 韓国ではほとんどの家が族譜をもっており祖先の祭祀を行っているといわれていますが、日本では家譜をもっている家は少なく、名字家紋で同族を知るくらいで祖先の祭りも行われなくなっています。家に対する帰属意識や伝承が失われてしまったのです。寺檀関係で寺の知らせる年忌法要中心の先祖まつりとなって、同族の先祖祭りは特定の神仏をまつることになり、その行事も希薄になっています。
 特に高度経済成長期に先祖崇拝が喪失し、家に対する愛着も帰属意識もうしなわれていったのです。

 

 

                                 VOL.8     2000.12.1

 

        先祖供養

 

 どんな人間にも必ず先祖はいます。しかもさかのぼって数えると無数の先祖の人々がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できません。このように気付いた時、先祖に対する感謝の気持が自然に湧き、それがやがて、尊敬や崇拝の念に変わっていくのです。
 「おかげさま」という言葉によって示されている言葉の中に、今日の自分をあらしめてくれた「ご先祖さま」に対する崇拝感謝の気持がふくまれています。

 人間にとって最も悲しいことは、自分が死ぬことよりも、自分が愛し大切にしてきたものを失うことです。
 特に自分をこの世に生まれさせてくれた父や母を失うことは人生の最大の不幸です。葬式や追善供養が単に死者だけのものではなく、生き残った者の死者に対する感謝、尊敬の気持を表現するのが供養です。これと同じ感情が、すでに過去に死去された祖父・祖母とかその先代とかにおよぶ時、先祖全体に対する追慕・感謝・尊敬といったものを表現するのが先祖供養です。

 すべてのものの悟りを目指す仏教の考え方では、単に個人の悟りや、個人の成仏だけではなく慈悲が大切となります。そこから死者が輪廻転生の世界で苦しまないため、生き残ったものが善根功徳を積み、それを死者に回向することによって死者の冥福を達成することができるのです。
 人間としてこの身を生かさせて頂いたことに対し先祖に対する感謝を表現することを通して、生きていることの意味を問い、やがて自分が先祖になって子孫が幸福になってくれることを念じられるようなものとして永遠の生命を生きたいと誓うことが供養です。

 日本人は古来、先祖の霊によって守られていることによって幸福な生活を送ることができると考えていました。彼岸とか盆には先祖の霊が帰ってくると信じられており、迎えるために迎え火をもやし仏壇で充分おもてなしをして、再び送り火によってあの世に帰ってもらうという風習がありました。墓まいりも同様で墓へ行って供物・供花・読経・焼香などして供養するのです。死者の霊は一定の期間を経過してこの世の穢れが浄化されてホトケ≠ニなり子孫を守ってくれるのです。
 死後、枕経・通夜・葬式・初七日から四十九日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌と続き、五十回忌の法事を営み、縁者と共に読経することにより亡霊は浄化され、よい世界に転生すると信仰されていました。死者の追善・回向・冥福を願ったのです。しかし縁者といえども、感謝や尊敬の念のわかない死者に対しては追慕や追善の気持ちが起こるわけはありませんので「家」の習慣がなければ、そうした気持と無縁になってしまいます。

 

 

                VOL.74          2002.8.7

 

        先祖供養 2

 

 祖先崇拝は「家」にたいする帰属意識のない家庭には祖先に対する供養は心のこもったものにはなりません。自分の先祖を祭る習慣をもたなければ、自分が何時か祭られるようになったとき、子孫がおまつりをしてくれたり、冥福を祈り回向することを期待するのは無理なことです。

 会社人間は離職すると非常にストレスがたまるといわれていますが、生活の基本は家庭にあり、家庭人間であることが最も大切な生き方なのです。しかし、家庭を大切にすることを忘れて会社人間になって生活することがあたりまえのようになっています。単身赴任はどうも家庭人の義務を放棄したようなものですが滅私奉公で会社のために自己を犠牲にするのが人間としての正しい生き方だと思って会社のためにつくしたのに何かの理由で退職しなければならなくなると生きる力を失う人も多いのです。
 家族は血で繋がった関係で切ることはできませんが、会社は都合で解雇します。そんなもののため全人格を犠牲にする必要はありません。

 家は親が子に対し、子が親に対して抱く無償の恩愛の情を育む場で、生存の基本であり、人生にとって最も大事なものであります。家族がおたがいの人格を認めあい、尊敬と愛情をもって生きることが大切ですが、そのためにはすぐれた精神性も必要です。

 核家族というのは夫婦中心の家族なのですが、どうしても経済的欲求中心の生活になりがちです。家族制度といわれていた家族は、夫婦関係より親子関係を重視し、家の相続を大切にしていましたので封建的家族として否定されました。
 しかし、今の社会で再認識されなければならないのは、家族は新しい世代を生み育てる場であり、共同で消費生活をする場であり、意欲的に生きるための精神的な安定を得るいこいの場でもあります。何より子供たちにとっては人格を形成する場でもあり社会発展の基礎になるのが家庭であることに変わりはありません。その家庭に道徳的確信もなく、親子関係の倫理もなくなってきてしまっています。

 さて、平安時代末期に高位官職についていた人物を始祖として祭祀する神社とか寺院を精神的よりどころとして、始祖の子孫中心に親族を集めて形成された「一門」がありました。12世紀になりますと、この「一門」から新たな始祖をもつ親族集団ができますが、これを「家」と称するようになります。この「家」は「嫡系による継承」がされていますが、庶子の分立も制限されませんでしたので、分立した庶子が新たに「家」を創始することも多くみられ、分立した庶子はその家の先祖となりました。しかし、分立した庶子家でも、最初の創始者である始祖=元祖も大切に祭祀されています。

 家族の源流をたずね、始祖の精神の伝承と家の永続性を考えた足立氏について調査し、家の永続性を願った生き方をみていきます。

 

 

第 二 章

足立の元祖をもとめて

 


丹波 青垣町小倉 黒尾大明神&諏訪大明神  2002.4.28

 

 

VOL.10     2000.12.15

 

        姓    名

 

 一人の人間が誕生してから死亡に至るまで、その人の人格のよりどころとなるのは姓名であります。子供が生まれると親は、その子の名前をつけるのに悩みます。現在でも姓名判断の伝承があり、健康で豊かな一生を送ってほしいと名付けに苦労します。しかし、姓だけは先祖から子孫へと連綿として受け継がれ、子は親の姓以外を選択することはできません。古い家には系図が伝承されていますし、新しい家でも本家を訪ねると先祖がわかり、それぞれの姓氏には歴史的背景があります。

 数の多い姓は佐藤、鈴木、高橋、伊藤、渡辺、斎藤、田中、小林、佐々木、山本だといわれていますが、これらの姓は鈴木以外すべて地名から来ているといわれています。名字というのは中世の豪族の土地支配(名田経営)からきています。
 つまり名田の地名を家名にして、その土地の支配権を表明し、名田経営を承認さすものであったとされています。更に苗字がありますが、これは近世になってから使用されるようになり、祖先を同じくするものの家名として区別されていましたが、現代では姓氏として名字も苗字も同一視されています。
 『日本苗字事典』によりますと、苗字は27万余もあるそうですが、その9割は地名からとられているとされています。また明治8年に国民皆苗となり、苗字をつけることが義務化されました。江戸時代は、人口3,000万人くらいですが苗字を公称できたのは120万人と推定され、4%だったのですが、明治8年にすべての人に苗字をつけたのです。

 日本の人口を推定した研究によりますと、鎌倉時代の人口は690万、江戸初期で1,200万人、江戸中期で3,100万人程度であり、明治10年で3,650万人、20世紀初頭で4,440万人、そして半世紀前で8,389万人、昨年の総人口は1億2,668万人となっています。
 昨年の統計では14才以下の年少人口が前年度より31万人減少し、逆に65才以上の老年人口が67万人増加していますので少子高齢化が急速に進展します。
 昨年の人口増加は20万人でしたから、日本の総人口が1億3,000万になる見込みはなく、逆に50年先は半減しそうな状況です。そうした動向のなかで今後消滅する苗字も増えてくると思います。

 さて、苗字のことなら、私の生まれた町は不思議に足立姓が多く、ものごころがついてから周囲の姓は足立ばかりで、同姓同名も多くとまどうことが多くあり、それは現在まで続いています。おそらく500人近くの足立さんと交流していますので「足立です」と電話がかかるともう大変で、どの足立さんか特定するのに苦労しています。それほど丹波氷上郡、とくに青垣町は「足立姓」が多いのです。
 寛政6年(1794)に完成した『丹波志』に氷上郡内の足立・安達姓は本家42軒、分家273軒とありますので、200年前にすでに足立を名のる人は相当数あったのです。佐久間英氏著『日本人の姓』によりますと、足立氏は約6万人あり姓氏別人口の244番目にあたるとされ、安達氏は約5万人で姓氏別人口の329番目であるとされています。

 足立姓の分布をみますと、東海地方(美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆)岐阜、愛知、静岡県と近畿地方(丹波、京阪神)兵庫県、京都府、大阪府、更に山陰地方(伯耆、出雲)鳥取、島根県、九州地方(豊前、豊後)福岡、大分県に偏在しています。
 福知山鉄道病院長であった安酸睦博氏の研究によりますと、足立氏は「その殆ど約95%は、中世武蔵国足立郡の豪族、足立遠元を遠祖としている。足立遠元は、藤原氏で、祖父の代より源家家人となり、父、藤原遠兼のとき、初めて武蔵国足立郡に在住、遠元のとき初めて、地名より足立氏を名乗っている」とされています。

 

 

                                VOL.11     2000.12.22

 

        青垣町と足立姓

 

 小学校に入学した時、一番不思議だったのはクラスの中に足立姓があまりに多かったことです。70名の同級生のうち28名が足立姓で同姓同名もあり、足立姓の子は地区名と名で呼んでいました。平成10年の青垣町の電話帳によりますと848世帯が足立姓です。
 足立姓の多い理由は、武蔵国足立郡の足立遠元の孫、遠政が承元3年(1209)に鎌倉幕府より佐治庄地頭に補せられ、山垣の万歳山に城を築いたのが足立氏扶植の始まりであります。
 青垣町小倉妙法寺所蔵の『足立氏丹州領地並由緒書』によりますと足立氏の所領は次の地区にありました。

    小倉、小和田、中佐治、佐治、遠阪、山垣、市原、稲土、
    文室、惣持、小稗、大稗、大名草、桧倉             以上拾四ヶ村

 『青垣町誌』の「部落誌」より足立関係の地区を調べ、その足立姓数をみると次の通りです。

  小倉(森)             41     稲土(菅原、西山、日向)  70
  小和田(寺内、奥塩久)     59   文室              19
  中佐治(杉谷、平野、岡見)  56   惣持              14
  佐治(新、中、本、荒神、         小稗               23
      上、大正、愛宕、東) 102   大稗               25
  遠阪(徳畑、和田、今出)    80   大名草              81
  山垣(向、下地、上地、平地) 89   桧倉               35
  市原(岩本)           44    口塩久              36
                                    計 774

 この地区のうち山垣に本城を、小倉、小和田、奥塩久、遠阪、徳畑、稲土に出城をおいて、現在の佐治、神楽、遠阪を支配すると共に、この出城に一族を配置していたので、その子孫がそれぞれの地区に足立姓を名のり増加していったのです。

 伝承によりますと山垣城には150人ほどの武士がいたといわれていますが、平時は城下の山垣、徳畑、中佐治一円に居住して農耕していたのです。天正の乱で山垣城が落ち、明智光秀に従った武将も滅亡し、それぞれ帰農したとされますが、それぞれの地区に遠政末孫の家系があり、農業をいとなんでいました。

 

 

                                  VOL.12     2000.12.29

 

        青垣町の足立史跡

 

 『青垣町誌』に記してある足立氏関連の記述をまとめますと次のようなものです。

  佐治  八柱神社     地侍足立氏の霊をまつる
       西往寺       足立庄次郎持の庵なり
       足立遠政の二男遠信、小和田城を築きこの地を領す
       「佐治、小倉、市原は岩本城、足立宗次入道(1350)の領下

  小倉  黒尾大明神 諏訪大明神…古城主足立氏勧請の神社
       瑞岩山高源寺  開山遠谿和尚(足立光基三男)の建立
       立正山妙法寺  足立左衛門太夫というもの足立氏の下屋舗に建立
       日が谷黒尾神社前に岩本城主足立宗次入道の居城あり
       足立遠政来丹時初めて居を構えたのが光明寺跡、下屋敷が妙法寺境内

  市原  正平22年(1367)3月16日
              佐治庄岩本城主足立宗次入道大明寺へ黒川郷御寄進
       元禄3年(1690)  足立嘉光、山名矩豊に仕う
       元禄4年(1691)  宗次入道の大位牌を黒川大明寺に納む ‐足立嘉光
       享和元年(1801)  岩本足立弥三郎娘つな但馬池田弥左衛門
                                  (但馬聖草庵の父)に嫁す

  小和田 小和田城址     古城主は遠政二男の足立左衛門遠信、三代の居城跡
       石仏山大通寺址  足立氏所持仏なり、足立氏の菩提所
       八幡神社      若宮神社と称し、天正11年10月15日足立遠宗を祀る
       薬師堂        足立氏母開基、五輪塔あり
       足立三郎兵衛旧栖 三郎兵衛を祭る神社、本屋敷は八幡の森となる

  桧倉  西天目山高源寺  山垣城主足立光基の子遠谿祖雄創立の中峰派本山

  大名草 足立氏が但馬、黒川を支配していたころは往還の村として重要

  小稗  城山         天正の頃足立又三郎南麓に住む

  稲土  八幡神社       足立氏先祖の鎮守八幡
       大灯寺        足立馬之助政重が建立、一休を開山とする
       足立修理太夫旧栖 山垣の分家、当谷を領し足立午之助相続す
       足立大和守旧栖、足立三太夫旧栖、足立主殿旧栖等あり

  遠阪  不遠山西方寺   足立彦助開基
       遠阪城熊野神社の南に足立伊豆守の居城あり、子孫は熊野神社の神官
       足立彦助政秀   秀吉の高麗陣に供奉す
       田の口城址    足立遠政が、田の口と今出奥に出城をつくる
                  足立右近光永、天正の丹波攻めで善戦す

  山垣  山垣城       古城主鎌足公末葉久保田左衛門尉遠政居城とす
       万歳山報恩寺   足立遠政の先祖を祭る

  中佐治 紫雲山清涼庵  足立氏持庵

  口塩久 玉林庵      足立丹後守基家邸跡

 

 

                VOL.75          2002.8.9

 

        家の永続性

 

 高度経済成長期に日本の永い伝統が崩壊し日本はあらゆる分野で変わってしまいましたが、その中でも最も重要なのが家の永続ということを考えなくなってしまったことです。
 「家」にほこりをもち、「家名」を大切にし、「家の永続」を願って生きて来ました生活の基本が崩壊してしまいました。「家」にたいするほこりがなくなり、家族も変質してしまい離婚も毎年増加し、昨年の離婚は29万2,000組で過去最多を更新しています。

 結婚式も変わってきました。家と家との婚姻の形式は過去のものとなって、親族の参加しない友人達の会費制で済ませるものが増加していますし、結婚式を省略することも増えています。愛がなければ結婚しないでしょうが、愛の永続は保障できませんので、2人の愛情のみでは離婚が増えるのもやむを得ないことなのです。

 日本の婚姻は、平安時代末期まで、夫が夜に妻のもとを訪れて明け方まで共にすごすという「通い婚」で、夜明けになると夫は自分の家へ帰って生活をしていました。
 男性は恋仲になった彼女のもとへ通いましたので、熱がさめたり、別の女性を求めるようになると女性のもとから去ります。女性に子供ができると、女性の血縁集団の中で育てられましたので子供は誰の子かは問題にされませんでした。

 平安末期に藤原氏の摂関政治となり、成功の制度が一般化します。土地を寄進することにより地位や権力を藤原氏より保障されるということですが、これまで共同体の共有財産でありました土地が、有力者の私有財産となり私領と化したのです。10戸ほどの家が集まり70〜80人で構成された血縁集団の共同体が崩れてしまいましたので、成人した女性は男性のもとへ嫁入りするようになりました。
 子供は特定される父母に育てられ、家の後継者として父の財産や地位をうけつぎます。有力者は名字を使用し排他的な「家」が成立し、「家」が集まって「家族」集団ができたのです。この頃から戦闘する時には「家名」を名のり自分の地位や家柄を相手に伝えてから戦いました。

 11世紀に関東で先祖伝来の本領を名字の地とし、そこを守るのは武士団の惣領で、先祖より継承した墓地や、一族の祭神の神社や寺院を建立し祭祀するようになりました。惣領は先代の子供のうちすぐれたものが嫡子として選ばれ、武士団の代表となり、その他の一族衆を「家の子」とし、更に非血族者を「郎党」として引きつれ武士団を形成しました。
 名字というのは、先祖伝来の所領支配権を継承する「家」につけられた名称でありましたので千年の歴史をもっています。

 一人の人の生命は過去にさかのぼると遥か彼方の先祖から親から子、子から孫へと伝承されていますので、永遠の生命とのつながりに到達してしまいます。今、いきている自分は永遠の生命から生かされていると気づくことこそ、人間の尊厳の基本なのです。永遠の生命から生かされている二人の男女が縁により夫婦となって家庭をつくりますので、それぞれの親、祖父母、曽祖父母と先祖につながって生まれてきて結婚したことを考えてみることも大切です。
 先祖のことを無視し、永遠の生命とのかかわりを反省しないでいると、家庭の聖域も精神性も失われ生きるよりどころがなくなってしまいます。家の永続のことなど問題外となってしまいます。

 高度経済成長期に多くの若者が単身で都市に職場を得て核家族をもつようになりました。郷里には老父母や祖父母をおいたまま後継者が転出した家族は悩みが多く、苦労しましたが、近年自分も退職して第2の人生へ再出発しなければならなくなりました。そして長い老後の生き方、先祖のこと、郷里の墓のこと、家の将来のことなどで悩んでいるものが増えています。まさに少子高齢化社会で、家族の崩壊は多くの人びとを生きる希望のないような不幸におとしいれています。

 「家」は平安末期の武士たちの社会で成立し、家名や家紋を重んじる生き方を現在まで伝えています。名字から家の永続のために身を賭した先祖達の生き方を知ることができます。

 家の永続性を考えるとき、鎌倉幕府成立に深くかかわっていた「足立氏」の存在があります。「足立氏」はあまり知られていない家名であり、権力者の陰で献身的な生き方をする人の多い歴史の表に登場することの少なかった一族であります。
 常に自利利他の精神で多くの人々の生きる幸せのために身を賭した人物が多い家であったようで、「足立」と「安達」をつかいわけながら家の存続につとめています。
 遠祖「足立遠元」に対する尊敬と崇拝の念が信仰となって一族の精神的バックボーンを形成したから、その生き方は今日まで伝えられているのです。

 足立氏の群像を調査して「家」の問題を考えていきます。

 

 

                                 VOL.14     2001.1.12

 

        足立氏 ふるさとの風土

 

 足立氏の「ふるさと」は坂東で、いまの関東地方を坂東というのは、足柄、碓氷の坂より東ということで、二つの峠によって外から隔てられ、大和朝廷への服属もおくれ、異域とされていまして、坂東の北方は蝦夷の住む「みちのく」であり、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の八国があり、これを坂東八カ国といいます。

 足立氏の先祖は、この坂東の地、武蔵国の足立郡に本拠をおく坂東武者、武蔵武士でありました。この地域は律令制が衰えると国家権力の統制がきかなくなり、秩序が崩れて内乱が頻発するなどして独立の気風がありました。足立郡の足立氏を考えるには、平将門の乱(天慶3年、940)ころまでさかのぼらなければなりません。それは「国史大辞典」(吉川弘文館)で平将門にしたがった武蔵武芝の流れが足立氏の先祖だとされていることを調査してみなければならないからです。

 平将門(903〜940)は坂東を根拠地として、天慶の乱をおこし、古代貴族国家に対し初めて本格的に武装反乱に立ちあがった武将です。出身は桓武平氏、祖父高望王は上総介、父良将は鎮守府将軍をつとめた家柄でありましたが、下総を基盤に勢力をひろげ、叔父国香を殺して、常陸、上野、下野の国府を攻め落とし、未曾有の戦いを国家に挑んでしまったのです。
 この乱以降、関東地方に源氏の勢力がのびてきます。11世紀前半、平忠常の乱を鎮めた源頼信、11世紀後半の前九年の役、後三年の役を平定した源頼義・義家と相模、武蔵、上総、下総の坂東武者との関係が強いものとなってきます。

 安倍貞任(1019〜62)は奥州の豪族で、父頼時とともに陸奥を押領して貴族国家に対抗して国司と争います。朝廷は源頼義(998〜1075)を陸奥守に任命して安倍の反乱を鎮圧しましたが東京都足立区の白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説がのこっています。

 

 

                VOL.76         2002.8.11

 

        武蔵武芝

 

 足立氏のルーツは武蔵の国にあった足立郡にあります。足立郡は埼玉県南東部と東京都足立区全域にあたる地域で東は古隅田川より埼玉、葛飾両郡に接し、西と南は荒川により大里、横見、比企、入間、新座、豊島郡に接した66ヵ郷で広大な地域です。

 足立郡の郡名は「続日本紀」神護景雲元年(767)12月の条に初見があり、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂らが武蔵宿禰の姓を賜わり、不破麻呂が武蔵国造となったという記事がみられます。そして、この郡を治めていたのは、大化改新以来西角井家であります。平将門の乱で活躍した「足立郡司判官代」の武蔵武芝は不破麻呂の後裔であるとされています。
 太田亮の「姓氏家系大辞典」には「将門記に足立郡司判官代武蔵武芝と見ゆるもの」の子孫が足立氏だとされており、吉川弘文館発行の「国史大辞典」にも「足立氏は平安時代以来源氏の家人で、この家は足立郡司武蔵武芝の子孫であり、鎌倉時代には藤原氏と称している」と書かれています。

 武蔵武芝は治郡の名の高い名郡司で、国衙からも住民の百姓からも信頼されて郡内に良政を施し精勤していました。ところが、武蔵権守(仮の国守)になった興世王(桓武天皇五世の孫)が、正式な着任をまたずに足立郡にはいろうとしましたので、武芝はその様な慣例はないと入部を拒否したのですが、興世王は強引に入部して武芝の舎宅や民家に押入り財物を奪い取り封印してしまいました。
 武芝は不法を訴え押収した財物の返還を申し入れますが興世王は耳をかさないどころか、武蔵介の源経基とともに合戦の準備をはじめました。この争いは平将門の仲介でおさまるかに見えましたが、武芝一派が経基の営所を包囲したことから、経基は京都に逃げ帰り、彼らが反乱を企てていると報告します。

 この事件は天慶元年(938)のことですが、この翌年常陸の土豪藤原玄明と国守の紛争に介入した将門は、国府を焼きはらい公然と国家に反抗します。以来関東の諸国に出兵して国守を追い、弟や一族のものを国守に任命して、自分は新皇と称して関東の自立をはかりました。将門に武蔵も支配されましたので、平将門の乱に武芝も渦中にひきずりこまれてしまいます。
 この乱は天慶3年2月に下野の豪族藤原秀郷と従兄の平貞盛らの軍に攻められ、平将門は討伐されて終わりますが、武蔵武芝も足立郡司を退任し、氷川神社の祭事からも退いています。

 西角井家系図によりますと、氷川社務は武芝の娘によって継承されています。この娘は菅原正好が武蔵介として下向してきましたのでその妻となって、その子正範が外祖父にあたる武芝の跡をついで氷川社務司となったことになります。氷川神社の祭祀権が武蔵家から菅原氏に移ったということは足立郡司職も武蔵家から菅原氏に移ったと考えられますので、武蔵武芝の子孫として足立氏が、足立郡司職をついでいたということはなかったことになります。

 武蔵菅原氏は、武芝の娘を母として正範が生まれていますが、兵部少丞であり、その子が行範で足立郡司権大夫となり、以後、行基、行永、正見、宗基、正家と代々続いて足立郡司を歴任しています。そして菅原家は正家以降は内倉と称するようになり、氷川神社の祭祀権は菅原氏より内倉家へと移り、足立郡司も、豊島氏、そして足立氏へと移りました。

 豊島氏は祖の秩父武常のころから武蔵で勢力をもっていました。足立区の史跡公園になっています白旗塚には、源義家の奥州遠征に豊島武常が附会したとの伝説があり、北区の上中里の平塚神社に居館があったとされ、足立郡を早くから支配していたとされます。
 2代目の常家は義朝にしたがって保元の乱に参加して討死しています。3代目康家は足立、多麻、新倉、児玉の四郡を領有したとされていますが、治承2年(1178)正月に逝去していますので、頼朝の挙兵以前に死亡していました。

 

 

                                  VOL.16     2001.1.26

 

        小野田三郎兼広(兼盛)

 

 丹波青垣町妙法寺に所蔵されています『足立家丹州領地並由緒書』によりますと、足立氏の先祖は、元祖藤原鎌足であり、17代の孫小野田三郎兼広の二男が遠兼であり、右大将源頼朝公家人で祖父より武州足立郡に住し足立藤九郎と名のり、民部凾に任ぜられたとなっています。
 また、佐治庄地頭足立氏系図では遠兼の父は忠兼、祖父は定忠となっていて忠兼は蔵人と注記されています。この系図は高藤流藤原氏を先祖とし、遠兼の妻が豊島平{伏泰家の女とあり「外祖泰家譲與足立郡地頭職仍一円知行之」の注があります。

 更に『尊卑分脈』には山蔭流で下総掾、出羽介国重の男、小野田兼盛が遠兼の父となっています。このように遠兼の父については、兼広、忠兼、兼盛となっていますが、いずれも兼の字があり、小野田三郎の注がありますので同一人物と思えます。
 また藤原北家の二つの流れの問題についても、妙法寺文書は「十七代孫小野田三郎」として系統を重視していませんので、今更7世紀以来の系図を推理する必要もないと思われます。

 『与野市史』には「平将門の乱後、氷川社務司および足立郡司職は武蔵氏から菅原氏に移っていたことが知られる。下って平安末期には氷川社務司は菅原氏が、足立郡司職は足立氏が継承しており」とありますが、郡司に任用するのは在地の土豪でなければ無理なことだとすると、遠兼以降郡司になるためにはその父、小野田三郎兼盛はすでに足立郡内で有力な土豪であったとするのが自然であります。
 このことについては『大宮市史』に「足立氏は大宮市内殖田谷郷に本拠を有する在地豪族」であったとし、「あだちとのの屋敷」と称される場所もあり、古代以来の式内社足立神社の存在もそれを裏付けるものとされています。

 さらに金沢正大氏は「兼盛は無官の『小野田三郎』と称するのみ」で、彼が藤原「国重の実子として土着したのか、在地豪族なのか、国重との婚姻関係等で、養子関係に入ったのか、いずれとも判断出来」として足立氏が山蔭流とはいえないとされ、「小野田系」の嫡系とされています。
 しかし、兼盛の孫の遠元の娘が藤原光能と結婚し、知光(1168生)、光俊(1179生)を生んでいますので藤原氏とは極めて深い縁で結ばれていたと思えます。
 ちなみに藤原光能は後白河上皇の近臣で蔵人頭として院旨を伝える近臣の最高位に任ぜられていました。

 関東には11世紀の源頼義、義家以来源家との主従関係をもつ在地武士が多かったのですが、武蔵の在地武士が保元・平治の乱で主流をしめ他を圧倒しており、その中には頼義、義家時代からの譜代の家人も多くあったことから、遠元の祖父兼盛は源家譜代の有力武士であったとされています。

 


足立藤九郎盛長像

 

 

                                  VOL.17     2001.2.2

 

        足立遠兼(小野田六郎)

 

 足立家の先祖は一般に足立遠元とされていますが、妙法寺文書では「遠兼右大将源頼朝公家人也自祖父住武州足立郡仇名足立藤九郎任民部丞」とあります。足立藤九郎については後に記しますが、先にみた様に祖父の代以前より足立郡に住居をもっていた地方豪族であり、国衙行政につとめた従六位くらいの人物であったと考えられます。「曽根本足立家代々由来」には「足立元祖民部丞藤原遠兼」という表現もされており、足立遠兼を足立家の先祖とする記述もあります。

 「丹州足立氏系図」には、遠兼について「武蔵国足立郡住」とあり、遠元について「足立と号す。母は豊島平{伏泰家女、外祖父泰家、足立郡地頭職を譲与す、依て一円知行」と注記されています。これについて安田元久氏が「泰家が実際に足立郡地頭職を有していたというのは、はなはだ疑わしい。それ以上に、彼の時代に『地頭職』という名称が行われたとも考えられない。」とされているようにこの系図も後世の創作であります。

 しかし、康家の娘が足立遠兼の妻であったこと、そして遠元の母であったことは疑問の余地はありません。また足立区の史跡公園になった白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説があり、奥州へ義家を案内した豊嶋氏の居館の跡が平塚神社になったという記述もあります。
 「豊嶋氏系図」には保元の乱で討死した常家のこと、足立、多麻、新倉、児玉の四郡を領有していた三代目康家(泰家)のことも記述がありますが、その康家も治承2年(1178)病死していることから、豊嶋氏から足立氏へ嫁いだ遠兼の妻へ足立郡の所領が譲られたということは充分考えられることです。しかしもしそうなら何時のことか、どの領域であったか不明です。

 「尊卑分脈」について金沢正大氏の安達藤九郎盛長についての考究によりますと、「基春」が「安達」とあり、「延慶本平家物語」に安達盛長が「足立藤九郎盛長」となっていて同訓異字である。又「兼盛」と「遠兼」、「盛長」は通字性により親子関係で、これが兄弟となると遠元と盛長は甥と叔父となる。しかし、この系図では盛長が小野田藤九郎とされ遠兼が右大将家家人安達藤九郎民部丞となっていることに疑問をもたれています。

 ところが、盛長は正治2年(1200)に66歳で死去していますので、その生年は保延元年(1135)となり、遠兼の生年は不明ですが、息子の遠元が平治の乱(1159)に参戦し右馬允に任官していること、遠元の娘が仁安元年(1168)生まれの知光、治承3年(1179)生まれの光俊の母であることから推定すると盛長より遠兼が年長で兄となり「尊卑分脈」の序列は逆であり傍注も入れかわることになりますから、遠兼が安達(足立)六郎となり、盛長は右大将家家人の安達藤九郎盛長となるとされています。

 鴻巣市糖田の放光寺には同市の文化財、鎌倉期の等身大の坐像、足立藤九郎盛長像があり、同所に盛長館址がありますので、安達藤九郎盛長は足立六郎遠兼の弟とすべきであります。盛長は文治5年(1189)に安達郡を賜っていますので、それから安達姓を使用したとみるべきで、すでに55歳になっていましたし、それは遠元が治承4年(1180)10月8日に頼朝より足立郡の領掌権を安堵されてからかなり後のことです。

 以上のことから妙法寺本の「遠兼右大将源頼朝公家人也」とありますが、遠兼は戦乱の続く東国にあって、小野田氏の嫡系として源義家以来の源氏家人として足立郡内に勢力をもち姻族を通じて武蔵の有力武士となり、一族の発展する基礎をつくり、「足立神社」を中心に敬神崇仏を大切に一族の結束をかためた人物でありました。

 

 

第 三 章

鎌倉時代の足立氏

 


足立右馬允遠元館跡

 

 

VOL.18     2001.2.9

 

        足立遠元

 

 足立氏は平安末期から歴史の舞台に登場するようになり、源頼朝の鎌倉幕府創立に主導的な役割をはたしています。武勇に優れ、忠義、礼節、信義、質実剛健を重んじ敬神崇仏の念厚い「文武両道の勇士」であり「武士の鑑」でもあるとされています。
 足立氏の祖とされている足立遠元とはどんな人物だったのでしょうか。

 遠元の父は小野田三郎兼広の長男遠兼で、祖父より武蔵足立郡に住んでいました。またの名を小野田六郎といい民部丞に任ぜられており、藤原氏を名のる足立郡領で、その弟に安達家の祖といわれています足立藤九郎盛長がいます。
 遠元の母は豊島康家の娘で、祖父常家は源義朝に従って保元の乱に参戦し討死しております。康家は、豊島、平塚、足立、多麻、新倉、児玉の六郡を領掌しており、康家の死後足立郡は遠兼にゆだねられています。両親の家はいずれも源氏ゆかりの一族であり源義朝の家人として武蔵の名族でありました。

 遠元の生年、没年とも正確に記したものはありません。足立四郎左衛門尉と号していましたが、これは建久元年(1190)11月頼朝の推挙により任ぜられてからのことであり、それまでは平治の乱(1159)で大活躍をして右馬允に任ぜられていることから右馬允遠元と記されています。右馬允として任官していますので30歳頃と考えますと、1120年代の生まれということになります。
 さらに藤原光能に嫁いだ遠元の娘の子知光の生年が仁安元年(1168)生まれであることから、もう少し前の生まれかもわかりません。また没年は「吾妻鏡」承元元年(1207)3月3日の幕府鶏闘会に参加した記事が最後でありますのでこの年ぐらいに死没したようですがそれはすでに80歳を越えていたことになります。

 足立遠元の遺跡は大宮市、桶川市に残されています。「新編武蔵風土記稿」に、大宮市植田谷の旧家勘太夫屋敷について「この勘太夫屋敷は先祖が在城した城址といわれるが、今も西方に堀をめぐらし、北の方には大沼があって、すこぶる要害の地であることは確かで、ずっと古いことはともかくとして、中世には相当の人が居住していたことは疑いない所である。この家にはいまでも国俊の刀、及び先祖が用いたという馬の鞍、長刀、鎗、刀、脇差等が沢山ある」と書かれています。
 遠元館址は、昔は三町歩の広大な敷地に土塁を廻らし、その中に足立神社があったといわれていますが、足立神社は明治の初期に飯田の足立神社に合祀されております。この屋敷址には勘太夫の子孫が住んでおられます。この子孫の小島家も元は足立氏で家紋は足立氏の家紋のケンカタバミ、五本骨日の丸扇で古文書が多く残されています。

 次に桶川市の足立館について「足立右馬允遠元館跡」と「三ツ木城址」があります。
 「足立右馬允遠元館跡」は桶川市末広二丁目にあり、現在は桶川市総合福祉センターになっている住宅地の一帯です。かつては老杉があり一本杉といわれていました樹齢幾百年のものだったそうで根株が残っています。
 「新編武蔵風土記稿」桶川宿に「旧蹟、屋敷跡、足立右馬允カ居住ノヨシ、今ハ林トナリ、其中ニ石ノ祠ヲ立レトモ、文字ナケレバ其由ヲ知リカタシ。昔、屋敷跡トオホシキ所ヨリ武器陶器ナト掘出セシコトモアリ」と記されています。老杉の根元に安置されていた石の神明宮(高さ70a)は現存していますが、右側に足立右馬允の家紋を刻し、左側に「神明宮建久三歳城主足立右馬允建之 文化六巳歳再建 府川甚衛門尉義重」と刻されています。府川氏というのは桶川宿本陣の主人であった人物です。

 足立右馬允や安達藤九郎盛長の居館とされているものに「三ツ木城址」が桶川市大字川田谷字城山にあります。
 川田谷の大宮台地の標高19.6bにあり三方が泥深い湿地で自然の要害の地でその範囲は東西120b、南北110bの地で、現在は「城山公園」として整備されています。城跡は山林で周囲には土塁、壕の跡があり、高台より四方一望でき川越方面を見渡せるところです。林の中に木造の小祠社2つがあります。
 居住者には前記の2人の他に石井丹後守の名もありますが、この人物は15世紀後半に活躍した岩槻太田氏の家臣です。

 


一本杉根元 石祠

 

                  VOL.19     2001.2.16

 

        足立遠元 2

 

 足立郡の豪族として、また郡司として最も有名なのが遠元ですが、郡衙は大宮市におかれ、現在の埼玉県北足立郡と東京都足立区を含む広大な地域を領有していました。藤原中納言山蔭の子孫が東国に下って土着し、遠兼の時に足立郡に居住して足立郡領となったともいわれています。
 郡領というのは、国に国司があり、郡には郡司が任命されて、それぞれの地方行政を担当しましたが、郡司には郡領・主政・主帳・書生・案主等の役職があり、郡領は長官として最も権力をもっていました。郡領は地方豪族の終身、世襲の職となっており、国司の推薦で太政官から任命されております。足立氏も源氏を棟梁として仰ぐ武士集団を支配していましたので足立郡一円を領掌しました。

 当時の武士が平生居住していた所が館であり、その地域の有力な私営田経営者であったり、荘園の荘司として荘園管理をしていますので広大な館をもち、家の子、郎党を従え、労働力としての下人、所従を使役して館内に住まわせていたのです。その上、治安が悪かったので、常に外敵の侵入を防ぐという防衛策を講じ、自衛していました。館の周囲には堀をめぐらし、その内側には土塁を設けていたのです。
 足立氏は源氏の家人として源義朝には、遠兼、遠元父子ともに従い、戦乱には一族と共に参戦しております。

 保元3年(1158)8月、後白河天皇は親政わずか2年で二条天皇に譲位し院政を再開しますが、これにより陰湿な動きがでてきました。後白河院の信任で実権をもった信西と、それと結んで頭角をあらわした平清盛に対しまして、出世の道を封じられた藤原信頼と平氏に先をこされた源義朝が信西打倒の策謀をすすめます。

 平治元年(1159)12月清盛が嫡男重盛とともに熊野詣に出た隙をついて9日の夜、義朝は院御所三条烏丸殿を包囲して後白河院を内裏の一本御書所に幽閉して院御所に放火、同時に姉小路西洞院の信西屋敷を焼き一族を追放、追いつめられた信西は自害するというクーデターを起こしました。
 14日にはその成功を祝し除目を行い左馬頭義朝は播磨守に、その子頼朝は右兵衛に任官、足立四郎遠元も右馬允に任ぜられます。

 ところが清盛が入京しますと藤原信頼を見放した公卿たちが、天皇を六波羅の清盛邸に後白河法皇を仁和寺へ脱出させます。天皇、上皇の不在となった内裏で信頼、義朝は完全に政治的敗北となり、あとは源氏の意地をかけた戦闘だけとなり、せっかく遠元ら武蔵武士の勇戦奮闘も役に立たず、信頼、義朝の首級は東獄の門の樹に梟される結果となりました。
 武蔵には頼義、義家時代からの源氏ゆかりの家人も多く、この敗北で武蔵武士は東国に帰りましたが平氏の時代となり、遠元も足立郡に帰り蟄居しております。

 平治の乱により清盛は一門と共に栄進し、7年後には太政大臣に就任しました。その政治は「平家にあらざらむ人は皆人非人」という状況で平氏敵対者を徹底して抑圧する弾圧政治が展開されます。武蔵も平知盛が国司となりました。そして、12歳の頼朝は清盛の継母の池禅尼に助けられ、伊豆蛭ヶ小島に流され、平家に属した伊東祐親や北条時政の監視下に20年をすごすことになりました。

 伊豆流人時代の頼朝を扶助したのは武蔵比企郡少領の比企掃部允の妻で頼朝の乳母、比企尼で、常に頼朝を庇って20年間仕送りをして保護してきました。
 比企尼は3人の娘がいましたが、長女は安達藤九郎盛長、二女は河越太郎重頼、三女は伊東祐親の二男伊東九郎祐清の妻です。
 足立遠元の叔父盛長は頼朝蟄居の間忠実に頼朝に近侍していました。後に盛長の娘は範頼の妻に、河越太郎の娘は義経の妻に、つまり比企尼の孫娘は頼朝の弟と結婚していることから、この3人の聟との関係は深いものでした。
 また盛長の妻の妹は伊東祐清の妻であり、祐清の妹が八重姫で頼朝との間に千鶴が生まれています。

 さらに足立遠元の姻戚を見ますと娘が畠山重忠と結婚しており畠山小次郎重秀が寿永2年に生まれています。遠元のもう一人の娘は藤原光能と結婚し、知光が仁安元年(1168)に生まれています。
 また光能の妹は後白河院の皇子以仁王との間に真性が生まれていることから、遠元と叔父の盛長、そして頼朝とは深い縁で結ばれており、遠元をめぐり頼朝と以仁王も姻戚関係にありました。

 


足立遠元館跡一本杉

 

                     VOL.20     2001.2.23

 

        足立遠元 3

 

 こうした東国武士間の身内関係、比企、足立氏とのつながりは頼朝の幕府成立に重要な役割をすることになります。足立遠元の娘が後白河院近臣の藤原光能の妻であり、その縁には以仁王もつながっていましたので、後白河院政の中枢に直結していたのです。
 比企尼が頼朝の日常生活を扶持し、盛長は日常近侍していたというだけではなかったのです。東国のかつての御家人というだけでなく甥足立遠元により後白河院政の動向は盛長を通じて頼朝に伝達されていたのです。頼朝にとって足立遠元こそ、最も信頼できる支持者であったことはいうまでもありません。

 足立遠元もまた、平治の乱後単に逃げ帰った義朝の家人としてかくれていたわけではなく、常に京洛貴顕との交流で政治の動向をみて源氏再興の時をさぐっていたので、頼朝の文武両道師範たりえたのです。
 頼朝挙兵の治承4年10月2日に「足立右馬允遠元 兼日依受命 為御迎参上」とあるのは当然で鎌倉入りをした10月8日に「足立右馬允遠元 日者有労之上 応最前召参上之間 領掌郡郷事不可有遺失之旨 被仰」と「吾妻鏡」にあるように東国御家人の第一人者として異例の恩賞をうけていることから、どれほど頼朝が頼りにしていたかを明白にするものであります。

 武蔵国は1160(永暦元)年に平知盛が国守となって以来、平氏が一貫して国勢を掌握していました。それを足立遠元の参陣と共に1180(治承4)年10月に畠山重忠、河越重頼、江戸重長の帰参により反平氏軍へと武蔵の豪族を決定的に転向させます。ここで10月5日国衙に入城し武蔵国を簒奪、秩父一党の長老重長を総検杖職に据えて新体制を樹立します。
 これも足立遠元女と畠山重忠の婚姻による武蔵雄族の秩父一党嫡流と足立氏嫡流との身内関係により成功したのです。重忠は頼朝近臣として鎌倉幕府創立に登場してきます。

 頼朝は平家討伐軍をおこすためには、関東諸豪族の協力が必要でありました。当時の諸豪族の権利を安堵して国衙や郡衙機構を利用して武家政権樹立を考えていました。そして治承4年(1180)に侍所をおき、元暦元年(1184)には公文所を設置して武家政治の機構を整備しました。
 鎌倉幕府の公文所は、貴族の家政機関にならってつくられた重要な行政機関で、分国や御家人を統治するための行政事務を担当していました。公文所設置のとき、別当には中原広元を、寄人には中原親能、藤原行政、足立遠元、甲斐四郎、大中臣秋家、藤原邦通等が選ばれましたが、これらの人々は京都の公家たちで実務官僚として堪能な士であり、遠元一人が御家人の代表として参画しています。

 遠元は元暦元年の志水冠者義高(木曽義仲の嫡子)残党の討伐、文治5年(1189)の藤原泰衡追討の際にも従軍し軍功をたてています。建久元年(1190)に頼朝が上洛した時、布衣侍十二人の内に選ばれて参院の供奉をしており、遠元は頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられております。頼朝の遠元に対する信頼は厚いもので、頼朝の姉の一条能保夫妻が鎌倉に来たときは鎌倉の遠元邸に宿泊していますし、頼朝夫妻も遠元邸で迎えているほどです。

 頼朝の死後、頼家が恣意的な傾向が強かったので、御家人の不満も高まってきました。そこで北条時政や政子の意見がいれられ、頼家が訴訟を親裁することができなくなり、北条時政など御家人と将軍側近の13人の合議制がとられるようになりますが、このうちの一人に足立遠元も選ばれ、依然として幕政の重鎮であったのです。

 「吾妻鏡」によりますと、足立遠元は承元元年(1207)ごろまで活躍しています。「丹波志」に「足立と号し、足立郡地頭職一円之を領す。頼朝公実朝公御両代武勇の師範たり」法名天福寺殿霊覚樹大居士とあります。
 遠元の嫡子は八郎元春であり左衛門尉となって足立家を継承しますが、他に遠光がおり、その子の足立遠政は勲功により丹波氷上郡佐治郷を賜ります。この子孫は代々佐治郷に住んで万才城城主として佐治郷の領主となりました。

 

 

                      VOL.21     2001.3.2

 

        源 頼朝

                                           源 頼朝

 平治元年(1159)頼朝の父、源義朝は源氏勢力の巻き返しを図りましたが、平清盛に敗れ源氏の衰退を決定的にしてしまいました。このころはどんな社会であったのでしょうか。

 前九年の役の始まった1051年というのは、その当時の人びとが「末法の時代に入った」と思いこんだ時期です。末法というのは釈迦が入滅されてより正法、像法を経て末法となるということで、正法の時は教(釈迦の教え)、行(正しい教えの実践)、証(実践の結果得られるさとり)の三つが具わった時代であるが、像法になると教・行しかなく、証が得られない時代で、末法になると教しかない時代となり、末法は万年続くという思想です。
 平安時代の中期頃より藤原氏の勢力は地におち、貴族政治は惰性に流れ、世の中は物情騒然となり治安は悪く「皇居に放火するもの」さえあり、地方では中央政府に反抗するものが多くなりました。

 頼朝の代からさかのぼること四代で八幡太郎義家に至りますが、河内源氏の嫡流でその出身は大阪です。義家は7歳の時石清水八幡宮で元服し、八幡太郎を名のりますが、これから源氏は代々八幡神を氏神としました。このことから八幡社は全国に広まっていきます。義家は13歳で初陣ですが、東北で謀叛を起こした安倍一族との戦いでこれが前九年の役です。
 安倍一族はことの外強く黄海の戦いでは源氏方が大敗、義家の奮戦で虎口を脱したといわれ、この戦は清原一族の援軍で安倍一族を滅ぼすことができ、この功により義家は出羽守に任じられました。さらに義家45歳、陸奥守、鎮守府将軍として清原氏の内紛を鎮圧しますが、これが後三年の役です。
 この戦は義家の私事とみなされ、中央から恩賞もでなかったので義家は、私財を投じて、部下に報いましたので一層の信望を集める事になりました。この天下第一の武勇の士といわれた義家の孫が為義であり、その子が義朝です。

 さて、藤原氏が全盛を極められたのは天皇の外戚という地位を利用して摂関政治を行ったからですが、白河天皇は摂関政治では恵まれない受領たちに支持されて院政を始めます。白河天皇は後三条天皇の遺志を継ぎ、上皇になってもその御所で政治を行います。
 当然のことながら、院と摂関家とが対立し、天皇と上皇が政治の実権をめぐり争いとなり、それに公家も二派になり、それぞれに武士団がついて保元の乱を起しました。

 保元の乱は崇徳上皇側に藤原頼長、源為義らがつき、後白河天皇側に源義朝、平清盛がつき、戦は一夜で決まり、上皇は讃岐へ流され、頼長、為義は殺されます。しかし、この乱後、清盛が勢力をもちましたので源義朝、藤原信頼は、平清盛、藤原通憲(信西)と対立してしまいます。
 平治元年(1159)清盛が熊野詣に行った留守に源義朝は兵を挙げ通憲を斬りますが、清盛に討たれ信頼も斬首されてしまいました。義朝の長男、悪源太義平も清盛父子を狙って捕えられ殺されました。

 13歳で平治の乱に父に従って初陣をつとめた頼朝も捕えられましたが、清盛の父忠盛の後妻池の禅尼の助命で助かり伊豆へ配流されます。
 頼朝が流された伊豆の蛭が小島は伊豆半島中央を流れる狩野川の中州に近いところであったようで、地もとの豪族北条時政(伊豆の国府に仕える役人で山木判官平兼隆の配下)や伊東祐親(伊豆の土豪)らの監視のもとに34歳まで20年間この地に過ごしています。

 頼朝はもっぱら読経三昧の生活で法華経を読誦しています。箱根権現の住僧に師事して仏教信仰に励む毎日でありましたが以仁王と姻戚でむすばれていた足立遠元により都の情報は正確につかんでいたようです。
 そして時々狩にもでかけており、伊豆の山越で伊東の豪族伊東祐親の屋敷にもしのんで行って娘に千鶴という男子を出生させています。この子は伊東祐親に殺され、頼朝もあわやのところ走湯権現に逃れ助かっています。また北条時政の娘政子とも仲が親密になり大姫が生まれている様で生活は自由であったようです。

 

 

                     VOL.22     2001.3.9

 

        源 頼朝 2

 

 頼朝の身を遠くから心配してくれたのが乳母の比企尼で、この尼の長女の婿が安達盛長であり、常に頼朝のそばに仕えていましたし、平治の乱で所領を失った佐々木四兄弟もおり、また頼朝の生母の実家は熱田大神宮といわれ、ここからも援助を受けていました。

 当時の武士は国府の役人として、知行国主の代官の目代の下で働いていましたが、そのうちに国府の有力者となり、治安が悪いとその地位は向上しています。
 また荘園の管理者でもあり、庄司・下司と呼ばれ次第に広大な地域を勢力下におき開拓して田畑にしたり、子弟と共に所領内の要地に館を建て、土地の護保拡大につとめました。しかし、地方の豪族であっても中央から来る目代の力は強大で自分の土地を安堵してくれる人物を求めていたのです。

 治承4年(1180)、後白河法皇の皇子以仁王は源頼政とともに平氏打倒の挙兵を4月に起こします。以仁王は第二皇子で親王でありましたが母は藤原成子で摂関家でなかったので親王宣下を得られず王にとどまり、二条、高倉と天皇になり、高倉天皇の子安徳天皇が即位すると、以仁王はこの即位を認めず新王朝を宣言しました。
 東国では以仁王を「新皇」と呼んでいましたので、足立遠元の娘が藤原光能の室であり、光能の妹が以仁王との間に真性を生んでいましたので、遠元は「新皇」の姻戚でありました。

 頼朝の叔父の親家行家が令旨を届けに来ますが、頼朝はこれを勅令として奉じます。清盛の源氏追討計画も頼朝に届きましたが、8月17日夜ついに目代山木判官を奇襲して伊豆国府の実権を押えました。
 世は平氏全盛の時代でありましたから源氏につくか、平氏につくか、この挙兵は東国の豪族に厳しい選択をせまることになりました。

 挙兵から平家滅亡までの4年半、頼朝は鎌倉を動かず、専ら東国支配を強化し、義経追討をきっかけに朝廷や、貴族の支配にも介入して全国的な軍事・政治の権限を強化していきました。建久3年(1192)後白河法皇の崩御により、征夷大将軍となって「天下の政道」を樹立します。
 頼朝の政道は理不尽を排除した道理を治国の基本とするものでありました。また終生仏教信仰に励み、法華経を座右の経典として読誦、書写していたといわれています。比叡山の霊威を尊崇し、重源の東大寺再建にはその復興を援助し、東大寺建立供養法会には後鳥羽上皇と同座して参拝しています。

 安房国東条郷に東条御厨がおかれていますが、これは一の谷合戦で再挙することができた記念に伊勢外宮へ寄進した神領です。「天照大神の御くりや、右大将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」と日蓮聖人はこの安房御厨のあるところに生まれたことを果報といわれております。
 日蓮聖人は伊豆に流罪されますが、この時もこの地が「兵衛介頼朝のながされてありしところ」と縁の深さを記されています。

 日蓮聖人は、頼朝が平家を討って亡父の願いをはたし征夷大将軍になったことを「法華経の利生」であるとされ「成親父の御くびを太政入道に切られてあさましというばかりしに、いかなる神仏にか申すべきとおもいしにいづ山の妙法尼より法華経をよみつたえ、千部と申せし時、たかおのもんがく房、おやのくびをもて来りてみせたりし、かたきを打つのみならず、日本国の武士の大将を給いてあり、これひとえに法華経の御利生なり」と「南条殿御返事」に記されています。

 更に、頼朝が賢人なのは法華経を読誦し、法華経のご利生をたえず心に刻みつけていたことにあるとされ「現世の祈祷は兵衛佐殿の法華経を読誦する現証なり」とされています。そして謗法の人は天から守護されることはない。頼朝は不妄語の人であり、不妄語の釈迦仏、法華経の化身である八幡大菩薩を信じ、法華経を読誦したので勝利したといわれています。

 


源頼朝の墓

 

                  VOL.23     2001.3.16

 

        比企尼の一族

 

 源義朝が鎌倉にいましたころ、比企掃部允は義朝の家人となっていたようで、やがて義朝が武家の棟梁として都で活躍するようになりますと、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝の側近として奉公することになります。側近の中でも最も信頼されていたようで、久安3年(1147)に頼朝が生まれますと妻の比企局がその乳母に選ばれています。武家社会では、子女が生まれると家人の中で最も信頼できる側近の妻に乳母を命じています。

 比企局には3人の娘がありました。長女は二条天皇に仕えて丹後の内侍とよばれていましたが、すぐれた歌人として知られており、惟宗広言に嫁ぎ島津家の先祖として有名な島津忠久を生んでいます。この女性は平治の乱後比企掃部允、比企局に従って武蔵に下り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚していますが、盛長との間に生まれた女子は源範頼の室となりました。また、比企局の二女は河越重頼の妻となり、その娘は源義経の妻となっています。三女は伊東祐清に嫁いでいましたが伊東祐清が討たれてから、平賀義信と再婚して朝雅を生んでいます。

 平治の乱で頼朝が伊豆に流されると比企掃部允は京都を去って武蔵国比企郡中山郷に住んで頼朝の扶助につとめます。そして安達盛長、河越重頼、伊東祐清の3人の娘婿はいずれも頼朝の側近として配流時代の頼朝に仕えています。比企掃部允は比企郡が国衙領でありましたから請所となって受領の支配を受けていた比企郡の小領主であったといわれており、猶子となっていたのが比企藤四郎能員です。比企尼のことについては、「吾妻鏡」に「武蔵国比企郡を以って請所となし、夫掃部允と相具して下向し、治承四年の秋に至るまで廿年間、御世途を訪ひたてまつる」とあります。

 鎌倉に幕府をひらいた頼朝は比企尼(夫は逝去していた)に酬いるため鎌倉に住まわせますが、その地が比企谷で、その邸宅を比企谷殿とよんでいました。また比企能員は御家人として側近に命じ、比企、入間、高麗の三郡を所領にして遇しております。比企能員も有力な御家人で、木曽義仲の残党が甲斐信濃で叛逆を企てたのを討伐したり、平氏追討軍に加わって九州遠征をしたり、奥州藤原氏征討のときには北陸道の大将軍として活躍しております。

 寿永2年(1182)8月に北条政子が嫡男頼家を出産しますが、その産所となったのが比企谷殿であり、乳母になったのが比企能員の妻でありましたので、頼朝、頼家との絆は強固なもので、頼朝夫妻もしばしば比企谷殿を訪れております。比企の娘、姫前は北条義時の妻となり、能員の長女若狭局は頼家に愛され建久9年には一幡が生まれており頼家と比企一族の関係が強まり、北条氏と対立が深まりました。

 比企能員は北条氏に謀殺されてしまいますが、能員の末子能本は京都に落ちのびて学問で身をたてます。のちに姉の若狭局の長女竹の御所(四代将軍藤原頼経の室)のはからいで鎌倉に帰って来ますが、この時日蓮聖人に逢い「立正安国論」の校訂にあたって居り日蓮聖人に深く帰依いたしました。そして比企大学三郎能本は日蓮聖人に自邸を捧げて法華弘道の根本道場を創建しますが、これが日蓮門下最初の寺です。

 寺号を長興山妙本寺といいますが、父の比企能員の法号を「長興」といい、母の比企尼の法号が「妙本」であり、いづれも日蓮聖人より授かったもので、これから山号・寺号がうまれています。この寺へ日蓮聖人は佐渡から帰還されて初めて立ち寄られたのですが、「三大秘法最初転法輪道場」とされています。山の谷間にある境内は杉木立にかこまれ閑静な寺院で、宋の陳和卿の作の釈迦如来像、日蓮聖人の大曼荼羅が残されています。この曼荼羅は日蓮聖人の御入滅の時に枕頭に掲げられたという大型の本尊で日蓮宗の宗定本尊とされているものです。

 大学三郎は文永8年の竜の口の法難の時には命を投げだして聖人を救うことに奔走しました。御家人の代表でありました安達泰盛とは書を通じての友人でありました。このことを日蓮聖人は「大学三郎御書」に「城殿と大学殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御手をこのまるる人也」と書かれています。

 


比企一族の墓

 

                  VOL.24     2001.3.23

 

        足立藤九郎盛長

 

 藤九郎盛長は頼朝の乳母比企局の娘、丹後の内侍と結婚して、頼朝が配流生活をしていた時から近侍として身のまわりを世話しておりました。

 「新編相模国風土記稿」には次のように記されています。
 「盛長は備前守相継の曾孫、小野田三郎兼広が子なり。頼朝蛭島にあって窃に兵を挙げんと欲せし時、盛長其の謀をたすく。……頼朝盛長旧臣たるを以って親任せらる」とありますから、藤九郎盛長は伊豆流人時代の頼朝に近侍していただけでなく、甥の足立遠元の娘が後白河院近臣の藤原光能と婚姻関係にあり、光能と以仁王も姻戚でありましたので後白河院の院政中枢と直結していたことになり、光能と遠元ラインにより中央の情報を直接頼朝につたえていたのです。

 藤九郎盛長は頼朝が挙兵する時、諸国の武将を歴訪して覇業成就のため武士団の参入を説いて廻ったということです。頼朝が挙兵した治承4年(1180)8月17日に伊豆の山木判官平兼隆を討たんとしたとき、三島神社の神事奉幣使として参向していますし、富士川の戦でも活躍しました。
 同年10月23日相模の国府で頼朝が家人に勲功を行った際には本領安堵されましたが、相模、武蔵、下総の各地に所領をもっていたとされています。陸奥の安達郡にも所領があり、安達氏を名のるとされていますが、北足立郡糠田がもともと盛長の領地であったようです。
 それは北足立郡糠田に安達盛長館があり、桶川市末広二丁目に足立遠元館があったとされていますし、この糠田に真言宗放光寺があり、足立藤九郎盛長の創建とされており、この放光寺には鎌倉期の木像「足立藤九郎盛長蓮西法体像」が所蔵されています。

 盛長は頼朝の信任が厚く、奥州征討に参戦したり、京都への使者をつとめたり、建久5年(1194)12月には鶴岡八幡宮の奉行人となって八幡宮造営を行っています。この時には鎌倉に館をもっておりました。その館は鎌倉の字長谷の甘縄神社の前にありましたが、頼朝、政子夫妻をはじめ歴代の将軍がたびたび訪れています。
 「吾妻鏡」によりますと治承4年(1180)12月24日に頼朝が初めて訪れたので、馬一疋を献上したとか、文治2年(1186)6月10日に盛長の妻の病気見舞に訪れていたり、建久3年(1192)には頼家が来臨したので剣一口を献上したとかの記録あり、建久8年に頼朝が訪れたときには盛長に上野国中の寺社を管理するよう命ぜられたりしています。

 この様に盛長の館には実朝、頼経と足をはこんでおり将軍との絆の強さをものがたっています。しかし、正治元年(1199)頼朝が逝去しますと頼家の代となり、その頼家が、盛長の子景盛の妾女を奪うというような事もあり、藤九郎盛長は出家して蓮西と号しました。
 将軍頼家の下で13名の合議制ができますが、その一人に加わっていました盛長も、正治2年(1200)4月26日逝去します。年は66歳でありました。

 盛長の長子は安達景盛で母は丹後の内侍であります。父と共に頼朝につかえていました。三代将軍実朝のとき、右衛門尉に任じられ建保6年(1218)出羽介となり、秋田城を管し秋田城介となります。これより秋田城介は安達氏の世襲の職となります。
 承久元年(1219)将軍実朝の死により出家して大蓮房覚智と号しまして、高野山に金剛三昧院を建立して実朝の菩提を祈りました。安達景盛の女は北条泰時の嫡男時氏の室(松下禅尼)となり、経時、時頼を生みましたが、この二人はつづいて執権となりましたので外祖父景盛は幕府のなかで権勢を高めます。
 政治的対立者であった三浦氏を滅ぼし、安達氏の隆盛の基礎をつくりました。その子安達義景、孫安達泰盛と続き「威勢先祖ニ越エテ人多ク随キ」というように幕府権力を独占するようになりました。

 弘安のころには従来北条一門に限られていた陸奥守に任じられたりしていますが、この権威は景盛以来執権一門と血縁関係を累ねてきたことによります。蒙古襲来の時、泰盛は子の盛宗を守護代として九州に行かせ、自分は御恩奉行として鎌倉にあり、北条時宗を助けて蒙古対策の中心的存在として活躍しています。
 時宗の死後得宗被官と対立が深まり、御家人勢力の代表でありました安達氏一門は弘安8年(1285)11月執権北条貞時により滅ぼされてしまいました。

 


足立盛長邸址

 

                  VOL.25     2001.3.30

 

        頼家と実朝

 

 足立遠元は平治の乱後故郷の足立郡に帰っていましたが、都との交流は続いていました。幕府創設以来、行政事務は堪能であり、都の朝廷とも接触をもち政治力を発揮していましたし、武術にもすぐれ頼朝に最も信頼されていた宿老でありましたが、晩年は心痛多く苦労がたえませんでした。

 頼朝が伊豆に流されていた時に北条政子との間にできた大姫がいます。大姫は木曽義仲の子の義高と結婚しましたが、義仲を滅ぼしたときに義高も殺されましたので、以来大姫は悲嘆の毎日を送っていました。
 この娘を後鳥羽天皇の后妃にしようとしました頼朝は、東大寺落成供養に北条政子と大姫もつれて都に上りました。足立遠元も供奉したことはいうまでもありません。都で丹後の局や源通親に接近し、親幕派の公家九条兼実の関白を罷免したり弟の慈円の天台座主を辞めさせたりして野望をとげようとしました。
 しかし、この頼朝の野心は源通親に利用され、通親の養女が生んだ土御門天皇が即位しますし、大姫も20才の若さで急逝してしまいました。そして天皇の外戚として権力を拡大しようとした頼朝も正治元年(1199)1月13日急逝してしまいました。更にこの年3月に頼朝の次女三幡も憔悴して逝去します。

 頼朝のあとをついだのは武芸の達人といわれた頼家で18才で二代目将軍となりました。しかし、朝廷には土御門天皇の外戚源通親がいますし、鎌倉には母政子と北条時政が幕府の支配を拡大して、将軍就任3ヶ月目には重要な職権でありました訴訟決裁権を停止されてしまいました。
 北条氏から疎外された頼家は側室の実家比企家をたより比企一族を重用します。前にみたように頼家の乳母は比企尼の娘であり、頼家の側室若狭局は比企能員の娘であり、その子が一幡です。

 幕府権力を独占しようとする北条氏にとって有力な御家人は邪魔でしたから頼朝時代の側近として勢力をもったものを粛清しました。その最初が梶原景時で頼朝の死の翌年1月に清水市で一族と共に殺され、更に頼朝の弟で生き残っていた阿野全成を謀反の罪で殺害します。
 そして頼家と比企能員の密談を理由に能員を殺し、比企邸に火をかけ、頼家の長男一幡6才を焼死させ、頼家も修善寺へ幽閉、翌年殺されてしまいました。

 頼家の弟実朝は12才で三代目将軍になりましたが兄頼家の様子をみていましたので、政子や時政に逆らうことなく、歌の道に逃避した日々を送ります。
 元久2年(1205)には畠山重忠親子も滅ぼされ北条氏の権力は強大となりました。実朝が親の反対をおしきってしたのは都の公家の娘との結婚だけだといわれています。
 在位期間は15年に及びましたが、建保10年1月27日右大臣就任の拝賀のため鶴岡八幡宮に参拝した実朝が石段を降りていたとき、公暁に首をかかれて死亡しました。

 


鎌倉 鶴岡八幡宮 治承4(1180)年 源頼朝創建  2002.7.14

 

                 VOL.26       2001.4.6

 

        足立遠元の子孫

 

 足立遠元が「吾妻鏡」から姿を消すのは建永2年(1207)3月の北の政所の中庭で北条時房らと「闘鶏」の会に出席したことで、これを最後に幕府の行事から退隠しています。鎌倉幕府の中枢にあって活躍した生涯ですが生年も没年も終えんの地も一切明らかではありません。
 丹波青垣町遠坂の報恩寺に遠政一族の墓地があり、その一基が遠元の墓碑と伝えられていますが、文字もなく供養塔だと思われます。

 足立遠元には6男3女がありました。嫡子は八郎左衛門元春で、左衛門尉となって足立家を継いでいます。元重は淵江田、遠景は安須吉、遠村は河田谷、遠継は平柳と号して庶子家を創立しています。
 更にもう一人は「足立氏系図」に母は源三位二条院讃岐と脚注のある遠光ですが、この人物は承元3年(1208)に丹波佐治庄の地頭となって山垣城を築いた遠政の父です。
 元重の淵江田は東京都足立区、遠景の安須吉は上尾市、遠村の河田谷は桶川市、遠継の平柳は川口市であり、その地名を号としてその地域を領有、支配していました。遠景は養子で天野遠景のことですが、足立郡に所領をもっていました。

 遠元の3人の娘についてですが、前にみたように後白河院の近臣で蔵人頭でありました藤原光能に嫁ぎ、知光、光俊の母となったものと、畠山重忠に嫁して小次郎重秀の母となった女性、更に北条時政に嫁して時房、時直を生んだ女性がありました。都の公家、有力な御家人、そして北条氏の外戚でもあったのです。

 足立遠元の嫡子八郎元春は「吾妻鏡」によりますと、建仁3年10月将軍実朝の御弓始めの射手に禄を与える役をしてから、承久元年の将軍藤原頼経の供奉人をつとめるまでの間鶴岡八幡宮参詣の供奉人をつとめたり、幕府の使者として都へ上ったりしています。
 その子は木工助遠親、その子三郎元氏、その子太郎遠氏と続き、官職は左衛門尉として将軍につかえて、遠元の惣領家として幕府の公事をつとめていたようです。また遠親は承久の乱の恩賞で讃岐の本山庄地頭職も有していました。

 ところが弘安8年(1285)11月一族の安達泰盛と得宗家との抗争で霜月騒動が起こり、泰盛に味方した足立直元は敗北して自害してしまいます。この事件により足立一族も幕府内の地位と本領足立郡は北条得宗によって没収されてしまいました。
 安達氏は幕府創建以来の功績と、執権北条氏との姻族関係からその勢力を伸ばしましたが、外孫北条貞時が執権になると更に権勢をもちましたが、内管領の平頼綱により中傷され、一族は討伐されて滅亡しました。御家人の代表安達と内管領の権力争いで敗北しました。
 しかし、足立直元の弟の基氏は北条氏の支配下にはいり、得宗被官となり、その子孫も遠氏―基舒―遠宣と続いています。

 


さいたま市大宮区 足立神社

 

                VOL.77         2002.8.14

 

        鎌倉時代と宗教

 

 鎌倉時代は武士層が古代王朝の権威を否定し、新しい社会を創造してきましたが、幕府の権力の掌握をめぐって、内部での粛清が多く執拗に陰謀や謀殺をくりかえし陰惨な時代でもありました。そうした中で新しい信仰が生まれて、親鸞、道元、日蓮、一遍などがあらわれて来ます。
 最澄が法華経を根本経典とし、これにより奈良仏教の雑多な仏教を統一しようとして天台宗を日本に伝えますが、その後継者たちは密教や禅を取り入れましたので天台教学は未完成なものとなり、鎌倉仏教の祖師たちが輩出することとなりました。

 法華経を最も尊重して最澄の意を伝えようとしたのは道元と日蓮ですが、道元が禅を重視したのに対し、日蓮は法華経の行者として法華信仰に生きました。また常行堂中心の阿弥陀信仰は、恵心僧都源信が浄土教を説きます。世は末法の世で天変地異が相ついで起こり、流行病がはやり戦乱の続く世相でありましたので、この世では救われない人々が、せめて来世は安楽な世界へ生まれたいと願ったのです。
 法然はどんなに貧しい人々も南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土に往生できると浄土宗を、親鸞は浄土真宗、一遍は時宗をはじめました。阿弥陀堂の建立はいたるところで流行したのです。

 寺社奉行をつとめていた足立遠元も鎌倉の阿弥陀堂奉行でありました。
 空海は中国より密教をもち帰り真言宗をはじめましたが、加持祈祷によって病気・出産・財産・位階・戦勝までが霊力によって得られるとして信じられました。この宗派は朝廷、貴族に受けいれられ、さかんに造寺造仏がなされました。

 また平安末期より、人が救いを求めるとその声を聞いて助けに来てくれる観音信仰がさかんになります。観世音菩薩は南の補陀落山に観音浄土があるとされ、鎌倉にも南に補陀落寺があり、長谷観音とともに信仰を集めました。この頃より三十三観音霊場めぐりが流行して畿内と、坂東・秩父でもその霊場ができています。

 頼朝は終生法華経を信仰して、毎日の読誦をかかさず書写もしていたといわれ、「山王(叡山)の霊威を蔑如してはならない」として天台法華を信仰、また俊乗房重源の東大寺再建にも援助しました。そして法華経の化身と信じられていた八幡大菩薩を信仰し参詣していました。頼朝に供奉していた北条義時や足立遠元も同様の信仰をしていたと思われます。

 時頼は得宗の地位を強めましたが、道元禅師を招き為政者の心がまえを聞いていますし、後に宋僧蘭渓道隆に師事し建長寺を創建して道隆を開山としましたし、自らも出家して最明寺入道道崇と号し、衣・袈裟を着していました。37才で没しますが座禅したままの臨終といわれています。
 北条重時の家訓に「庶家は惣領を主とも親とも神仏とも思うべし、後生は西方極楽を願うべし」と書かれており、念仏信仰をすすめています。

    【鎌倉期の仏教】

 〔宗派〕     〔開祖〕  〔本尊〕        〔経典〕 
 融通念仏宗  良忍  十一尊天得如来  法華経・阿弥陀経
 東大寺勧進  重源  超宗派        法華経
 浄土宗     法然  阿弥陀如来     浄土三部経
 臨済宗     栄西  釈迦如来       法華経・般若心経
 浄土真宗    親鸞  阿弥陀如来     浄土三部経
 華厳宗中興  明慧  毘盧遮那仏      華厳経
 曹洞宗     道元  釈迦如来       法華経・般若心経
 法華宗     日蓮  釈迦如来