
仏涅槃図 命尊筆 絹本着色 鎌倉時代 正中2(1325)年 丹波・妙法寺蔵
|
VOL.61 2002.1.20
はじめに
21世紀はイスラム原理主義者による「新たな戦争」で始まりました。平成13年9月11日におきました世界貿易センタービルとペンタゴンに飛行機が突っ込み、もう1機はホワイトハウスを狙ったといわれていますが途中で墜落したという大惨事です。 自由と平等な社会実現を世界共通のルールにしようというアメリカ中心のグローバリゼーションは、世界金融市場で富を獲得し豊かになった少数の成功者もいますが、食料も水もない貧困な十数億の人々はますます困窮し社会不安の原因となっています。 人間の基本的な欲望に、食欲・性欲・生存欲がありますが、飽食の日本では食料は充分すぎで肥満に悩むものが多いし、性欲も自由に解放された社会であり、生存欲も長寿高齢化社会で諸外国の水準に比較すると恵まれ過ぎの豊かな国が日本なのです。 心の時代と簡単にいいますが、「心のままに」生きるためには、自分の心の中にいる魔性をコントロールできなければなりません。仏というのは、自分の心の中にいる魔性を封じ込め、自己の欲望を制圧した状態で、他人の心の魔性を除去できる能力をもつということではないかと思います。 仏教は、他宗教と併存し共生し同化してきた宗教です。唯一絶対の神を持つキリスト教やイスラム教のように統一性もなければ、熾烈な宗教戦争の歴史をもっていません。仏教は許容性・多様性を具えた平和主義の宗教です。 仏教はどういう教えで、何を説き、何を訴えてきたのか、多くの仏教者の主張を分かりやすく伝え、それが日本人の生き方にどのようにかかわってきたかをみながら21世紀に生きる尊い教えであることを究明していきます。
VOL.62 2002.1.27
宇 宙
人間の一生は一回きりで、生命も一つしかありません。二度と手にはいらない生命を生きているのですが、生命はどこからきたのか不思議です。 そのように考えますと生命は宇宙から与えられたということになります。 仏教の源流をしらべますと、古代インドの宗教的伝統に到達いたします。釈迦生誕のもっともっと昔に源があるのです。5000年前にさかえたインダス文明に、シバ神の原型や、ヨーガ、火葬の風習があり、悪霊崇拝とか、性器崇拝、蛇神信仰などがあったといわれています。 「ヴェーダ」というのは知識のことですが、この知識は生活習慣的な知識であり「神聖な啓示」とか「霊験の知識」というようなもので、幾百年もの経過の中で成立し、口伝され伝承されたものです。 当然のことながら仏教も、古代インドの伝承をうけついでいます。仏教経典にある宇宙観もその一つです。「三千大千世界」とか「須弥山」あるいは「四劫説」にもインドの伝統的宇宙観、自然観が表明されています。 須弥山は世界の中心の高い山で、まん中まで海中に没しており、中腹の四方に四天王の宮殿があり、この山のまわりを、日、月が廻っているとされます。しかし、これは小世界であり、この千倍の小千世界、その千倍の中千世界、さらにその千倍の大千世界があり、宇宙には百億の世界があり、それを三千大千世界といい、その世界を法身仏の「久遠の本仏」が守護しており、すべての小世界にも本仏の化身が常住しているというのです。
VOL.63 2002.2.11
インドの神々
3500年前に「ヴェーダ」を聖典とする宗教が成立しますが、これがバラモン教です。このバラモン教に民間の信仰や習俗が混入して、ヒンドゥー教が成立したのです。 バラモン教の神々のうち最も偉大な神はインドラで「リグ・ヴェーダ」聖典の4分の1の讃歌がこの神に捧げられています。 柴又の帝釈天は庶民に親しまれ、庚申の日の縁日には参詣者がたえず、信仰をあつめています。帝釈天は「神々の帝王」といわれ、飢饉と疫病の神として不思議の利益をもたらすといわれています。庚申は60日で一巡するカノエサルの日のことで、この日に人間の体中の三尸虫が睡眠中に天にのぼり罪悪を天帝につげるというのですが、この天帝が帝釈天だということです。 インドでは、魂の輪廻が信じられていますが、多数の神々を祭り、よい世界への転生を祈ります。神々は数は多いですが、唯一なる神の副次的な神が多くあり、それはなにものも除外するより同化させることを考えた結果です。 正しい人間は死後天界におもむきますが、悪い人間は暗い世界におとされると信じたインドの人々は、悪事を行ったものは不幸な状態に転生するという基本的な因果の法則により生死輪廻を信じました。 インドラ、アグニ、ヴァルナ等の神々から世界を創造するブラフマー、その創造された世界を維持するヴィシュヌ、そして破壊するシヴァの三神が中心となり、これらの神々により宇宙も人間も支配されるというのです。 こうした神々は仏教の十二天、十王等となり仏教を守護します。
VOL.64 2002.2.23
輪廻転生
人間の霊魂が死後、他の動植物や、生まれてくる人間のなかに転生するとか再生を繰りかえすという輪廻転生説は、世界各地の原始文化のなかにあります。霊魂は肉体から遊離することができ、人間の霊魂も動植物に宿る霊魂も同性質のもので、非常に小さなものだと考えられています。 古代ギリシアのピタゴラスや、エンペドクレスも霊魂の再生を説いていますし、それを受けてプラトンも霊魂は不滅であり、霊魂の数は一定で輪廻は規則的に行われているとされています。 インドの古代からの宗教・哲学は輪廻転生を基本にしており、アーリア人到来以前の先住民族が生殖力崇拝、祖先崇拝の風習を通して輪廻転生を信じていたとされています。 死後霊魂はあの世へ行くとされていますが、遠いところなので、迷わずいけるように火葬の時、羊も道案内に一緒に火葬する習慣がありました。羊は道祖神プーシャンの車を引くといわれており、プーシャンは神の国につくまでの守り神として信じられました。 輪廻転生を体系的に叙述したのは「ウパニシャッド」です。生前中に戒律の遵守、布施、信心の生活を送っていたものは、死後「父祖の世界」に行き、そこから月の世界に渡って生存中の果報を享受し、その後、雨となって地上に戻り、食物となって人間に食べられ、それから精液となって母体の胎内に入り、新しい肉体の中に再生するといわれています。 こうした輪廻転生の考え方は、業思想をもたらし、人は現世でまいた種=業=を来世で刈取らねばならないとされ、善業はよき来世を、悪業はあしき来世をもたらすことになります。生きるということは、前世の善悪の行為の結果を生きることになり、その結果を清算する場であり、未来の生を予決する場だというのです。 そして、個人の霊魂=自我(アートマン)=と宇宙の絶対者=梵(ブラフマン)=とが一致するという梵我一如になる解脱を成就することができれば、輪廻のない不滅の光明の天の世界に安住することができるというのです。 仏教はほとんどのインド人が輪廻転生を信じていたので、この考え方を採用していますが、仏教は個人の人格的主体を認めない無我の教えなので、霊魂や、アートマンなどの存在を積極的に認めてはいません。
VOL.65 2002.3.7
自業自得
自分がなにかを言ったりしたりする言動には、かならずその結果が自分にもたらされること、逆に、なにかが起きると、それはかつて自分のした行為が原因になっているというのが自業自得、つまり自分のしたことの結果をうけとるのは自分であり、けっして他業自得とか、自業他得とかではないという古代インドの業(ごう)という考え方があります。 輪廻転生というのは、自分の行いの報いはかならず自分が受けるという自業自得を基礎にした因果応報の法則と、生きとし生けるものが現在このように生存しているのは前生の行いの報いであるという考え方で、来世どんなところに転生するかは、今生の行いの良し悪しによって決まるとするものです。 業はカルマの訳語ですが、造作、作用、行為などを意味しており、身体、言葉、意識のすべての働きと、それによって生ずる潜在的な力のことだといいます。この身、口、意の三業の中で一番大切なのは意業とされました。 生きとし生けるものは、死んで何かに生まれ変わり、また死を迎えるという再生と再死を延々とくりかえすのですが、その転生と人間のこの世での行為を結びつけて、バラモンの祭祀の実行が死後の運命を決定すると信じたのが、インドの教えなのです。「人は善き業により、よき人となり、悪しき業によりて悪しき人となる」とされて、世俗的な欲望を離れて出家遊行する生活が求められました。 輪廻は再生をくり返すことですが、この世は望みどおりに生きられないし、死が必ずやってくることから輪廻転生は苦しみ以外のものではないので、そこからの永遠の脱却をもとめ解脱を願いました。 無我、あるいは非我の教えである仏教もこの業の思想を伝承しています。仏教もまた、前生から今生、さらには未来世にわたり自己同一性のある心身の要素=名色(みょうしき)=を説いています。 「死に終わる名色と、再生された名色とは異なるけれども死に終わる名色から再生する名色が生まれる」とされており、その関係は同一でもなく、他のものでもないというのです。
VOL.66 2002.3.21
霊魂不滅
生存していた人がなくなりますと霊界にたびだちましたとか、御冥福をお祈りしますとかいいますが、これらは霊魂不滅であり死後の世界を前提としています。 生者の霊魂が遊離することを生霊(イキリョウ)といい、死者の霊が死霊といわれています。死霊は子孫より祀られて供養されると清らかな霊となり、祖霊に昇格しますが、さらに祭祀を重ねていると子孫を守護する霊になるといわれています。 猿人(アウストラロピテクス)が出現したのは400万年前で、明石原人は100万年前といわれていますので随分古い話です。日本人の先祖とされています沖縄より発掘された港川人は約2万年前と推定されていますが、抜歯の風習があり霊魂観念をもっていたとされます。 人類の起源はアフリカにあり、アフリカの中央部のビクトリア湖から流れ出しているナイル川はエジプト領内を通って地中海に流れこんでいますが、このビクトリア湖から川を下ってエジプトへ入り、ナイル川流域に住みついた人々が、太陽崇拝をしており、神の国は東方にあると考えて移動し、ついに日本へたどりつき定住したともいわれています。 日本人も古来昇る太陽と沈む夕日を拝んで、死後神の国に往生することを願っていました。 エジプトでは死が訪れると肉体から「バァ」という霊がぬけ出し、「カァ」という霊は肉体にとどまり墓に供えられたものを食べて死体を守るとされています。そして「バァ」は太陽神「ラー」のもとで安楽な生活をするというのです。 輪廻転生のルーツはエジプトにありました。数多くの神々が「ラー」の化身という本地垂迹説も5000年前のエジプトに端を発しています。
VOL.67 2002.4.18
イランの神々
アーリア人はもと中央アジアの高原に居住して、西インドからイランにかけてのステップ地帯で牛や羊の牧畜でくらしていましたが、前15世紀頃に二つに分別して、西北インドのパンジャブ地方に侵入してインド人となったものと、東北イランで半遊牧民となったイラン人とに分かれました。 イラン人ゾロアスターは前630〜前553頃の人ですが、人類の歴史の不思議で、古代文明世界の東西各地に時を同じくして大宗教家思想家が輩出します。 イランの旧来の信仰では、先ず原初の神があり、神は宇宙を創造します。そして次に水をつくり、大地をつくり、大地の上に植物、動物、人間を順につくり、7番目に火をつくります。火は植物と動物、人間を殺し、天上の神に捧げました。神はそれにこたえて大地を潤し、動植物をこの世に増繁させてくれます。 この世から離れた魂は、あの世に着くまで暗い河を渡らなければなりませんが、生前に正しい行いをしていて、多くの供養をされたものは河を渡れますが、それ以外は地獄に落ちるとされています。 ゾロアスターは東北イランの半遊牧民の祭司の家に生まれたとされ、成人してから真理を求めて各地を放浪していました。ある時河の流れに身を入れて水を汲もうとしたのですが、その河岸に輝く7人の神々を見たのです。 ゾロアスター教の教えも仏教の成立に大きく影響しており、天国・地獄の観念(二元論)はこのゾロアスター教からもたらされました。
VOL.68 2002.5.14
再 生
人間が死後霊となって人間に再生するという考えは、世界各地に古くから存在していました。 エジプト人は現世の生活に満足していたので、現世に再生することを望んでいたといわれていますし、死者から離れたバア(魂)は神の国に行くことになりますが、神の国に入りますと、そこで再生し大神の祭壇に供えられているパンや葡萄酒、ケーキなどを食べ現世とあまり変らない生活をするといいます。 さて、インドでは、人間は生きている時は体内に生気(スス)と霊魂(マナス)があり生気は生命の源であり、霊魂は思考力や意志や感情を起させるものであるとしています。霊魂は心臓の中にあって小さく早く動く羽根のあるものとされています。 古代の人々は、あの世に行った霊は祭礼の日に子孫のもとに帰ってくると信じていました。霊の帰る場所は墓などの他、岩くらとか突き出た岩、山中の男根石や女陰石に帰ってくると考え、男根石を御神体としたりしています。 仏教は無我と無常を基本としたもので、形あるものは必ず滅し、永遠の自己は存在しないとしています。愛する人が死んだとしても生まれたものは死なぬということはないので亡くなったからといって嘆き悲しむことはない。むしろ無常を観ずることによって心の平安をたもてと説いています。 無常は花が咲いて散りますが、また次の年に開花するように人は死んでも、「よみがえる」ことができるので嘆き悲しむことより心を養えと説いています。
VOL.69 2002.6.26
前生の物語
仏教の開祖、釈尊が誕生されたのはルンビニーとされていますが、生誕の地にアショーカ王の石柱が建てられており、「ここに仏陀、釈迦牟尼が誕生された」と刻文されておりますので、ネパールのタラーイ地方であったことは歴史的事実であります。ヒマラヤ山麓に建国していました釈迦族の王子として西紀前六世紀ごろにお生まれになりました。 「釈尊」というのは釈迦族の尊者という意味の尊称で釈迦牟尼世尊を縮めた語です。釈尊のことを仏陀ともいい「めざめた人」のことをいいますが、原始仏教では釈尊以外に六人の仏陀の存在を説いています。これを過去仏あるいは古仏(燃灯仏など)といい釈尊は第七番目としています。そして未来に顕れる仏として弥勒仏があり、現在は釈迦仏と弥勒仏との中間で無仏の世と小乗では考えていますが、大乗では東方に 阿閦仏あり、西方に阿弥陀仏というように無数の仏が存在すると考えました。 仏陀としての釈尊の偉大さを讃える立場から釈尊の伝記が「仏伝文学」といわれているほど多くあります。釈尊は釈迦族のスッドーダナ(浄飯王)を父とし、マーヤー(摩耶)を母として生まれました。どの民族に属していたかは明らかではありませんが、インド・アーリア人の多いネパール中部の南辺のインド国境に近い小部族の国でカピラヴァットを首都としていました。 偉大なる人の伝記は、古来その人の前生について書いているものが多くありますが、何度も生涯のあいだに献身的な努力を重ねてこられたので「仏陀」になられ、その教えはインドや東南アジア、中央アジアから中国、朝鮮、日本など世界中で信仰されるようになったとされる立場から「前生物語」が世界各地に伝えられ、仏教彫刻絵画の主題となり文化遺産として伝えられています。 むかし燃灯仏(定光仏ともいう)の時代に、儒童という青年がいました。この青年は一心に仏道修業をしていましたが、仏陀が現われたことを聞き、鹿の皮を着て山から下り、途中修業者五百人に遇い、仏道について論議しました。そして修業者達から銀貨一枚ずつを餞別されて都へやってきました。その日に燃灯仏が都へ来られるとのことで、儒童は大喜びで仏陀にあいに行きますが、その途中王家の女が七本の青蓮華を水瓶にさしているのを見て、五百枚の銀貨を渡して、五本の青蓮華を手に入れ燃灯仏にささげました。 ところが儒童のささげた青蓮華は空中にとどまって燃灯仏の頭上を飾りました。この時燃灯仏は「おまえは過去久しい間、多くの生涯で修行を続け、身命をなげうって人々のためにつくし、欲望を捨てて慈悲ぶかい行ないをして来た。将来において仏陀になってシャーキャムニとよばれるであろう」と授記されました。 また猿王が釈尊の前身だったという話もあります。猿の仲間が皆殺しになりそうな時、自分の背中を橋にして対岸に逃した猿王は自分の身を犠牲にして猿王としての義務をはたしたという話です。法隆寺玉虫厨子台座の密陀絵で有名な太子の話もあります。 このように「ジャータカ」の物語は数百伝わっていますが、それらは自己犠牲の功徳を前生で積み重ねて来た功徳によって、今生では釈尊のような人格円満な世尊が生まれたのだとされています。
VOL.83 2002.9.4
過 去 世
私たちにとって理解しがたいことですが、仏教では過去・現在・未来のことを時の流れとして考えなくて、「ものごとの流れ」として考えますので、三世といい、過去世・現世・来世といっています。現在の一生涯が現世でこの世に生まれでる以前の生涯が前世であり、死後の生涯を来世といっているのです。 「ものごとの流れ」とは、「いまだやってこないもの」がやって来て、やがて「行ってしまう」ものとして三世をとらえています。つまり、時間を実体視せず、実在するものとみないのです。時間は変化する存在の変遷で、それを仮に区分しているにすぎないというのです。 過去世のことは、過去・前生・前世・前際ともいっていますし、未来世のことは、未来・来世・来生・当来・後際ともいっています。そして重視していますのは、現在世と未来世で現当二世といっています。 古代インドの社会では、人は何度も生まれ変わり輪廻転生すると考えられていましたことは前述のとおりですが、その輪廻転生は、善悪応報の因果律によって転生する世界がきまるとされていました。この考え方は、ギリシャ、アフリカの古代思想と共通であります。 釈尊は前世において、菩薩として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道に次々と生まれられ、種々の姿・形をとって菩薩行をされました。菩薩というのは、自分の身をかえりみず、他人のために努力する人のことで、悟りを求めて修行の道に入っている人のことです。 35歳で仏陀となられた釈尊の教えはインドや東南アジア、中央アジアから中国、朝鮮、日本、チベットから蒙古、シベリアに伝えられ人類に大いなる指針を与えられ信仰されていますが、こんな偉大な人物は過去の永い世代を通じ、多くの生涯を通じて、献身的に不惜身命の努力をされた功徳によると教えられました。 ジャータカは民衆の仏教でありましたから、彫刻、絵画の主題として、インド、東南アジア、中央アジア、中国などで多くの傑作が残され世界遺産として今に伝えられ、訪れるものに深い宗教的感動を伝えています。
VOL.84 2002.10.20
釈尊のふる里
ヒマラヤ山脈のふもと、ネパールとインドの国境に近いところに釈迦族の小国がありました。その国のひとびとは米作を生業として、政治的には共和制をしいていましたが、その国の主権者の子として釈尊は生誕しています。釈迦族の本拠はカピラ城でバスティ地方の北、ネパールの南の国境カトマンドゥの西方200キロのところです。 インドは50万年前にさまざまな地域に人類が住んでいたことが知られていますが、5000年前にハラッパ、モヘンジョダロ中心にインダス川の流域に整然とした宏壮な諸都市を建設し、銅器時代文明を成立させています。この文明を残した人びとは、アーリア人よりも先にここに住みついてエジプト・メソポタミア文明以上の文明を発祥させ発展させていました。最盛期にはインダス川流域の南北1500キロにおよぶ広範な地域に高度な文明が成立しました。 しかし、この文明はアーリア民族が侵入してきて完全に滅ぼされたようです。アーリア民族は紀元前1700年ごろから原住地を出てヨーロッパに定住するもの、東方に向ってアジアに侵入してインド‐イラン人となったものなどがあります。アーリア人がインドに侵入したのは紀元前1300年ごろとされています。原住民との戦闘の経過は「リグ・ヴェーダ」の詩のなかに表現されていますが、先住民はアーリア人の支配下に隷属し、インド社会最下の隷民階級となりダーサとよばれています。 釈尊は釈迦族のゴータマ姓の家系に生まれ、父はスッドーダナで王とよばれていましたが専制君主ではなく、貴族会議政治の代表者であり民主的色彩の強い王国でありました。この釈迦国は、カピラ城を中心に釈迦一族が各村の首長となって、この首長の合同協議で共和政体をつくっていました。その面積は東西80キロ、南北60キロほどで現在のインドとの国境に近い地域にありました。 釈迦族がアーリア系の白色人種であったかどうかは不明で、アジア系の民族かもしれないともいわれていますが、農耕中心に平和を愛好する人々だといわれています。はじめアーリア人と被征服民ダーサ(非アーリア人)の2階級社会でありましたが、階級差別が複雑になりカースト制が成立します。釈尊は出家することによりクシャトリヤの身分を捨てられました。 釈尊がお生まれになったのは、ネパールのルンビニー苑であり美しいところと仏典には書かれています。当時の風習で、妊婦は実家に帰ってお産をすることになっていましたから、母のマーヤー妃は実家に帰り、デーヴァダハ城の近くのルンビニー苑で4月8日に出産され、ゴータマ・シッタルタがお生まれになりました。それは紀元前463年のことです。
VOL.85 2002.12.6
釈尊の降誕
釈尊は釈迦如来ともいい、如来さんなのです。如来とは真理の世界から来たもの、真理に到達したもの、真如の世界から来られたこの上もなく尊いものということです。釈尊は如来さんの十種の徳をそなえたおかたで、この世にあって偉大な仏教により人類を救済されている仏さまですから、その降誕についても随分多くの伝説が残されています。まず如来の十号といわれています徳についてみていきます。 応供 ― 阿羅漢のことで、ふさわしい者、つまり人・天から尊敬される資格ある者。 以上の十号の徳を備えるにいたる人物の誕生というので世にも不思議な奇瑞が仏伝には書かれています。 釈尊の父は浄飯王(スッドーダナ)で、白飯、斛飯、甘露飯の兄弟がありましたが、浄飯が位につきました。母は摩耶夫人(マーヤー)といい、白蓮華のように清い心の持主でありました。この夫婦の間には長い間、王子がなかったのですが、摩耶夫人がある日、6つの牙のある白象が天から降りてきて、夫人の右脇から胎内にはいった夢を見て懐妊されたとのことで、すでに45歳でありました。 釈尊が誕生されますと、神々は天上から花の雨を降らせ、2頭のナーガ(竜)が産湯を注いだということです。生まれたばかりの釈尊は、東南西北を見わたし、北に向って7歩あゆみ、右手を上に左手を下に向け、「天上天下唯我独尊」と宣言されます。
VOL.86 2002.12.26
釈尊の降誕 2
母の摩耶夫人は釈尊降誕の7日目に逝去されてしまいます。これは「釈尊」となるために摩耶夫人は肉身の仏陀を産んだだけでなく、法身の仏陀を産むため、太子に堪えられぬ骨肉の死の悲しみを与えるため逝去されたのでした。 32相というのは全身にみられる身体の特徴であり、転輪聖王は輪の回転が武器で血を流さずに征服する王たちの王で非凡な能力のもち主であり、仏陀も神たちの神で、神々への信仰は人間の霊性を目ざめさせますが、その神々の指導者であり、人々と神々の幸福のために法を説くのが仏陀なのです。 釈尊が育ったのは農耕地帯で米作中心の農業を生業としていました。農耕は大地・自然との関係で成りたちますので、大地の恵みを大切に、またその恐ろしさを身をもって感じるのが農民です。宗教としての宗教が成立する以前から敬虔な風習があり、世界中どこでも自然物や、名も知れない偶像が祭られています。 また農耕の習慣として王が先に耕作をする行事があったようで釈尊も父王につれられて農業の苦しい労働、地中の虫の生命、弱肉強食を幼少の時から見ていたのです。「一切皆苦」の仏教の命題もそこからでていますし、自然崇拝の多神教もその風習から信仰されたのです。 さて釈尊がお生まれになった時代のインドは激動期を迎えていました。鉄の使用で農業生産が上昇して商業が生まれます。商人達は武力を持った王族と結んで部族都市国家を成立させますが、この部族中心の都市国家も統一される運命にありました。釈尊に期待されたのは、強力な君主として釈迦族の王国を守り、さらに発展拡大し強国にすることにありました。父の浄飯王(スッドーダナ)は、少年釈尊が立派な武将になるための教育を受けさせます。 インドでは7歳になると文字や算数を習う習慣があったようですが、釈尊は7歳にして師をしのぐ能力をもっていたとか、8歳からの剣術、馬術、象術、天文、占い、呪術等の能力も抜群であったと仏伝に記されています。弓の競技会でも、誰も引くことのできなかった、祖父獅子王が使用していた鉄の弓で座したままで鉄鼓を射抜かれ、その矢は天高く舞いあがったという話もあります。
VOL.87 2003.1.25
釈尊の太子時代
釈尊の幼名はゴータマ・シッダッタ(悉達多)ですが、ゴータマは姓で「最もすぐれた雄ウシ」を意味しています。この姓は当時の部族社会での動物崇拝、とくにインドでは牛に対する崇拝の念がありましたのでこの姓を名のり、またシッダッタ(悉達多)は「目的を達成する者」という意味があり、その将来を期待する名がつけられています。 当時のガンジス川中流地域ではクシャトリア階級が社会の実権を握るようになっていましたが、群雄割拠で小国が互いに勢力を競っていました。そんな状況のなかで悉達多太子は生まれましたので、理想の王となって国家統一をしてほしいと転輪聖王への期待がありました。 父のスッドーダナ(浄飯王)はシッダッタの性格が沈思黙考型であったので、その性格を明るくするためにあらゆることをしましたし、太子もその期待にこたえて文武両道にすぐれた能力を発揮されたことはすでに述べたとおりであります。 多くの美女にかしずかれ、豊満な姿態を目のあたりにしながら恵まれた生活をしていたことが記述されています。当時のクシャトリアは妻を多数もつのはあたりまえの一夫多妻社会でありましたので、太子もそのような環境で日々を送っていたのです。 ダンダパーニという富豪の娘ゴーバーで、稀にみる美人でありました。このゴーバーはむかしむかし、然燈仏の世に修行中の太子から仏にささげる青蓮華をわけてほしいと頼まれてその華を譲る条件に、のちの世で妻にしてほしいと願っていた王家の娘だったというのです。
VOL.88 2003.1.30
釈尊の太子時代 2
第一妃となったのは釈迦族の一門でスプラブッダ(善覚)王の娘ヤショーダラーです。提婆達多や阿難陀の姉でのちに釈尊との間にラーフラ(羅睺羅)が生まれます。この女性と太子は前世でも夫婦でありましたが、一緒に山野で暮らしていた時、食べものの怨みから何をもらっても満足しなくなってしまった女性で、誇り高い性格だったとされています。 王宮で不自由なく快楽に満ちた生活をしていた太子ですが、毎日が快楽であればあるほど、城外の悲惨な生活、生老病死に苦悩する人々のことを知り、この生老病死の苦悩を超越する出家の道にすすみたいと思うようになりました。 さてラーフラが誕生し王家に継承者を得たことにより釈尊は出家の決意をかため7日目の未明に宮殿を出たといわれています。太子が出家して馭者と馬だけが戻ってきた時父母妃たちは嘆きましたが、ヤショーダラーの悲痛憤懣は大変なものであったと伝えられています。 第三の妃については、釈迦族カーラクシューマの娘でマノーダラーでありますが、父が釈尊に精舎を建て供養したことくらいで伝承がありません。早く離別したともいわれています。 若き日の釈尊には3人の妃があり、それぞれ別の宮殿に住んでいて、各宮殿は三重の門があり武装兵士によって警護されておりました。釈迦族の生活水準はかなり高く太子は幸福な日々を送っておりましたが、ラーフラの出生をチャンスに出家してしまったのです。
VOL.93 2003.6.6
出 家
釈尊は王族に生まれ恵まれた生活をし、欲しいものは何でも与えられ、ありとあらゆる快楽をほしいままに暮らしていました。三つの別邸があり、多くの侍臣にかしずかれ、美しい女性をはべらせ官能の快楽に酔いしれる優雅な生活をされていました。 学生期 ― 勉学の期間で古典ヴェーダを指導者について学習する。 こうした社会状況で出家の思想家が生まれ自由思想家といわれる人々が出現しますが、これらの人たちは「サマナ」(沙門)と呼ばれていました。沙門には王族出身の人もいましたが、家を捨てて出家し、一般の人々から施し物をもらって生活していました。出家の理念というのは、輪廻転生とかかわっています。つまり輪廻転生は苦しみであり、人生の苦から開放されるためには輪廻からの脱却が大切です。輪廻することのない解脱の道に進むことができれば、人生の四苦八苦より開放されるのです。 衣 初期ジャイナ教は衣をつけず全裸で修行したといわれています。ボロ衣を使用する。 少欲知足を修行生活の根幹として、衣、食、住をきびしく制限するものでした。 釈尊が解脱を求め出家された動機について仏典は「四門出遊」を記しています。東門から出るとみにくい老人にあい、老苦を、南門から出た時には病人とあい病苦を、西門から出た時は死人をみておどろき、更に北門から外に出て沙門にあって、老、病、死の苦から逃れる道は沙門として生きる以外にないと決意されたというのです。 最初にアーラーラ、カーラマ仙人を訪ね、無所有処という何物にも執着しない無一物の境地を得られました。次にウッダカ、ラーマプッタ仙人のもとで非想非非想処という無念無想の境地に到達されました。しかし釈尊は、この境地では老病死の苦悩を解脱することは困難とされ、煩悩を滅する手段として「苦行林」に入り、はげしい苦行に専心されるのです。
VOL.94 2003.7.3
解脱への道
人生は四苦八苦だといいます。四苦は生・老・病・死で、生まれるということは「思い通りにならない世界に生まれる」という意味で《生苦》なのです。さらに日常生活にみられる愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦と人の身心から生まれる五陰盛苦の苦しみを加えて八苦といわれています。人生観、世界観の基本に人間の苦悩の真相を認識するのが仏教の教えです。どうすればこの苦悩から解放されるかで釈尊は難行苦行されたのです。 人間には肉体と精神がありますが、人は肉体の欲望によって精神が悩まされ、悪徳や不幸にひきずり込まれてしまうのです。戒律によって行いを慎み、心の平安、清澄を不動のものにするため、心を鍛錬して禅定により肉体を束縛してその欲望を抑え、心を乱さないようにして正しいものの見方を体得すれば解脱できるとする修行の方法です。 生老病死の苦悩は禅定によって忘れることができたとしても、この世に生きる欲望(貪欲)とそれに対する嫌悪(瞋恚)が心を苦しめます。こうした煩悩を滅除する方法として苦行が行われました。釈尊も「苦行林」という森に入ってはげしい苦行をされました。肉体の欲望を制御し、心を制御するため端坐して歯をかみ合わせ、身も口も心も動かさないようにじっとしている。出入の息を制御して呼吸を止めるとか、断食して一日に麦一粒だけを食べて極限まで食を断つという極度の難行をされたようです。 釈尊は六年間苦行の日々を送られましたが、ついに「この難行はさとりに至る道ではない」と結論され苦行の無益なことを知り、新しい道を求められます。苦行が激しければ激しいほど、心の平静を失い気力がなくなり思考力が弱まることを体験され「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という身心一如、中道主義こそが修行に大切であると悟られました。 体力を回復された釈尊は、ブッタガヤにある菩提樹の下に坐り、目的を達するまでこの坐を立たないと誓願され瞑想にはいられました。その固い決意に驚いた魔王は攻撃をしかけました。妖艶な魔女三人に誘惑をさせたり、鬼神に暴力をしかけさせたり、皇帝の坐を与えようと甘言したりしましたが、不動の釈尊は心静かに禅定にはいり人間の生死について、ついに正しい智を体得されました。
VOL.95 2003.9.2
釈尊の悟り
釈尊の悟りはどのようなものであったかは種々の経典がありさまざまに説かれています。共通するものは、人間をありのままみつめることにより、苦の原因を知り、清浄な行為と瞑想を行って心の汚れを取りさることでありました。釈尊が追求されたのは人生の矛盾であり、人間の悩みをいかに解決するかにありました。 ありとあらゆるもの、生きとし生けるものは刻々変化して、とどまることなく、水の流れは太古より流れていても、その水は同じではないように、人も時間の経過でしか変化に気づきません。昨日も今日も同じものが続いているように思うのは錯覚なのです。昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分を考えてみても経験と記憶によって不変な存在だと思ったり、幸福の追求も、この世もあの世も同じ状態が持続すると考えたりもしますが、それらはとどまることはできず諸行無常なのです。 そして、人間の欲望ははてしなくあり、その欲望によって憎しみや悲しみの連続の人生を送ることになり、自分の存在そのものが苦で、人生は苦か、苦の種となるものにみちていて、愛すべきものも、執着していることも苦の原因でしかないとされます。 釈尊が体験されたように修行することができれば、苦しみは消え静かな喜びの世界に参入することができるとされ、煩悩の火の消えた境地のことを涅槃寂静といわれています。五官の味わいえない新しい喜びの世界のことで、煩悩を止滅させると寂光の世界に到達することができるとされています。 釈尊が六年の歳月をかけて苦行し、断食し、瞑想によって求められたものは、制御しがたい自己の欲望をどのようにして止滅するかであったのですが、その方法として十二因縁の説が説かれています。 人間は生まれながらに迷い、自己中心に物を見、愛憎の業を造っているので苦の原因を解明すると無明を打ち破らなければ、苦からの脱出はできないとされています。釈尊はこれらの真理を悟られ大悟して仏陀となられました。
VOL.96 2003.10.7
仏教のはじまり
釈尊は苦行林で六年間修行されまして、ブッダガヤーの菩提樹のもとで悟りを開かれ仏陀(真理を悟ったもの)となられました。しかし、仏陀となられました釈尊は、自分のさとった真理「法」の内容を他の人に説こうとせず、ひたすら自分のさとり得た法の境地に浸って一人楽しんでいられたといわれています。「長い難行苦行をし、苦労してやっとさとり得たことを、貪りと憎しみにとりつかれているひとびとにさとらせるのは困難なことである」とされたのです。 釈尊は菩提樹下での禅定から立ちあがり、数百キロ離れたバラモンの聖地として栄えていたベナレスに行かれました。ベナレスには、かつて苦行を共にした五人の修行者がいましたのでベナレス郊外のサールナートで旧友五人に最初の説法をされたのです。このことを初転法輪といい、サールナートこそ仏教がはじまった聖地なのです。 五人の修行者は釈尊の教えと人格に帰依し、さとりを開き解脱することができ、阿羅漢となりました。阿羅漢というのは煩悩を完全に滅した人のことで、世の尊敬を受けるに価する人とされて「応供」ともいわれています。 出家したものは家から離脱して、独身生活をつづけ世俗の職業にはつかず、経済行為は禁止され、托鉢で生活をするのです。また、在家者は家庭をまもり、正しい職業をもち、職業に精励努力して名誉や財産をもち、呪術や魔法は禁止され、犠牲を伴う祭祀を排除し、経済的に恵まれると他人の為に財貨を喜捨することが大切とされました。 当時の宗教家たちは解決できない形而上学的問題をとりあげて一方的な論争をしていたようです。世界は有限か無限か、身体と霊魂は同一であるか別のものであるかなどです。これに対し、釈尊はそんな議論は無益であるとし、人間が生きるための真実の道を説かれたのです。 苦行し、断食もし、瞑想されて求められた人生の苦からの脱出は制御しがたい自己の欲望をいかに止滅するかということでありました。苦悩の解決に人は最高神を求めたり、第一原因が存在するように考えて迷いますが、そうしたことの根本には自分の欲望に原因があるのでその自分の欲望を制御する以外になく、制御するのは自分しかないとさとることであるとされています。 つまり諸行はうつろうので実体はなく、自分に内在する我も実体はないので、実体のないわれの欲望をすてない限り人生の苦悩からの離脱はできないのです。 迷いの根本は欲望にあるので、戒律をまもり禅定をおさめ、束縛から脱して執着や愛欲を断たなければならない。苦行と欲楽の両極端を止めて中道を歩み、一切のものに慈悲をおよぼすよう生きることこそ理想の生き方と教えられています。
VOL.97 2003.11.29
釈尊の教え
釈尊は悟りをひらかれてより四十五年間仏教伝道につとめられましたが、その伝道は人生の苦からの離脱を多くの人々に伝えることでありました。菩提樹の下で悟られたことのうちで最も大切なのは、世間は縁起しているということを発見されたことです。縁起というのは、自然界の真理のことであり、すべては原因とそれに付随した条件との相乗作用によって結果があるということです。どんな原因も一定の結果を生むことはありません。原因は同じでも、それに付随する条件で結果は変わるという当然のことなのです。 人の身体と精神の関係も相互に縁起しているのです。身体が健康でなければ、精神も健康でないし、精神が健康でなければ身体も健康でないということです。身体から生ずるものはすべて関わりをもっているとされ、迷いや悩み、安らぎなども身体から生まれる心の働きで、それらは縁起しているとされます。 苦が生起する原因は愛着と歓喜したい欲望、享楽を求める欲望、生命を存続させたい欲望などによるとされ、苦を消滅させるには欲望を離れて完全にすてきり、執着をたち切ることをしなければならないとされています。欲望を離れるためには、快楽を追い求める生活をやめることですが、同時に苦行のような極限にまで肉体を苦しめる極端をさけて「非苦非楽の中道」に生きることが最善であるとされています。 人は五つの要素からなりたっていると教えていますが、その五つというのは肉体と、感覚する働き、色や形を心に形成する働き、意志の働き、ものを区別して認識する働きのことで五蘊といっています。しかし、この五蘊というものはどれも本体のないものですが、それが人を形成しているので、もとは何もなかった五つの要素が縁起して人が作られているということから、身体は仮のものであり、自然界から一時のあいだ借りているとされています。このように人をみるとすべては空であり、執着するものも欲望するものも本来ないので、とらわれのない自由な人として生きることになるというのです。 したがって、人の本性からいえば生まれによる差別もなければ、男女の差別もないのですが、インドの古代からの思想には、生まれによる差別を制度化し、不合理な信仰をする結果、社会をさらに暗くし苦悩多いものにしているというのです。人の差別は生まれによるのではなく、人の日々の行いが善であるか、悪であるかによって差別されるべきで、誰でも理想の存在になり、悟りを開くことができるとされ、人の本性に差はないとされます。 そして、あらゆる対象に執着しないとする立場にたつと、真理(法)についても同様であり、真理であるからといって、それに執着する必要もないというのです。真理(法)、あるいは真理による教えは人に迷いの此岸から悟りの彼岸に導くためのもので、河を渡る筏にすぎないのです。彼岸に渡るのに筏が重要な働きをするからといって、河を渡してくれる筏を背おって陸路を歩むことはないのと同様に、河を渡ると筏をすてるように真理(法)もまた捨てなければならないとされています。このように私たちの執着の心を徹底して否定し、とらわれのない自由な人になることが説かれています。釈尊が目指されたのは人間のはたらき、あり方にあったのです。 大切なのは、空の心で生き、世界はこころによって造られていることを信じ、心を支配することの重要性が説かれたということです。心を制御できれば、身体には眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官がありますが、それを制御できるのです。六つの感覚器官もまた捉えがたいものでありますが、心を制御しなければ、あらゆる欲望を制御することはできないし、ものに執着して起こる欲望は感覚器官に関係するので、その根は心にあるということです。ものに執着する欲望をその根でたち切るのは自分の心しかありません。自分を律することができれば、心は制御され家庭はもとより、世界の平和をもたらすことができるとされています。釈尊が身をもって行じられたのは、衣食住のすべてについて貪りを離れ、心を制御し一切の苦から解脱し仏道に生きるということでありました。
VOL.98 2004.2.19
仏教教団のはじまり
釈尊は五人の聖者と鹿野苑に滞在されて、托鉢されていましたが、ベナレスの街でヤサという青年に出あわれました。ヤサは富豪の一人息子で、妻や侍女たちに囲まれ不自由のない愛慾の日々を送っていましたが、その生活に嫌気がさしていた時に釈尊にあい鹿野苑で説法を聞きます。 マガダ国ではカーシャパという姓の三人兄弟のバラモン修行者がいました。それぞれ、五百人、三百人、二百人の弟子をもって林間で火神を祭り苦行を続けていたのですが釈尊の威厳にみちた指導により三人の兄弟とも、その弟子とともに帰依し仏弟子となりましたので出家者は大集団となりました。 当時インドで最も強国でありましたマガダ国での教化は進展し、弟子となる人も多くありましたが、国王のビンビサーラ王は進んで教団のために竹林精舎を寄進しましたので、ここに仏教教団が成立しました。かつてのマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)は五つの山に囲まれた盆地であります。ビンビサーラ王が寄進した竹林精舎もここにあり、晩年に釈尊はこの地の霊鷲山の山頂に住んで法華経を説かれていますし、釈尊入滅ののち第一回目の結集が開かれた七葉窟もこの地であったことから仏教教団の宗教活動の中心地となります。 この頃に舎利弗や目連、摩訶迦葉の三人が釈尊に帰依して仏教教団の充実に貢献します。舎利弗(サーリブッタ)は少年時代に四つのヴェーダ聖典を学び奥義をきわめ、学芸に通じていたといわれるほど聡明であり、竹馬の友目犍連とともに六師外道の一人として有名でありましたサンジャヤに師事していました。 初期の大乗経典は釈尊が一切皆空を説かれていますが舎利弗に対してであり、般若の智慧は慈悲として現実に働くものであり、舎利弗は般若の実践者でありました。法華経でも方便品で釈尊は舎利弗に仏の智恵は難解難入であって、仏と仏のみに諸法の実相が理解できるといわれています。残念なことに舎利弗、目連とも釈尊に先立って遷化しましたが、釈尊もその一年後にクシナーラーで入滅されました。 釈尊に弟子入りを請うた迦葉は八日目に阿羅漢の境地に達し、釈尊の着古した袈裟を譲りうけ衣食住のすべてを最も粗末に生活する頭陀行に励み、頭陀第一と称せられ、晩年は阿難を後継者として鶏足山で入定しました。 さて、釈尊が成道され多くの弟子ができたことは故国のカピラ城にも伝わり、父の浄飯王は釈尊に帰国を促がします。成道六年頃に帰国され、ここでも出家者がありました。異母弟の難陀、実子の羅睺羅、従兄の跋提、一族の阿難、提婆達多、阿那律、難提迦、そして理髪師の優波離、さらには婦人達の出家も多くなって来ました。
VOL.99 2004.4.14
仏涅槃と仏教興隆
宗教的聖地とされていたベナレスのサールナートで最初の説法(初転法輪)をされてより釈尊は四十五年間にわたりガンジス河流域で布教をされました。国王、大臣、貴族、商人、労働者、さらには遊女にいたるまでのあらゆる階層の人びとが釈尊の説法を聞きに集まりましたが、特に商人と手工業者が多かったようです。 その中には、釈迦族が従属していましたコーサラ国の首都舎衛城に住んでいた長者スダッタ(須達多)もいました。釈尊に帰依しましたスダッタは舎衛城の南方郊外にあったコーサラ国の太子祇陀の園林をゆずりうけ、これを釈尊の教団に寄進していますが、これが有名な祇園精舎です。 釈尊の教団では、舎衛城の祇園精舎と王舎城の竹林精舎が布教活動の拠点となり毎年の雨期三ヶ月出家者を集めて修行する場として使用されています。さらに釈尊の晩年にはコーサラ国王のパセーナディ(波斯匿)も帰依して釈尊の信者として布教に協力しましたので仏教教団は壮大な僧院のなかで、修行と並行して教学研究の進展をみるようになりました。 阿闍世王が活躍していた頃、釈尊は王舎城郊外の霊鷲山に滞在されていましたが、釈迦族の滅亡や提婆の反逆など悲しむべき事件が起こっています。釈尊はマガダ国が諸国を攻撃して緊迫した状況でありましたが、侍者阿難と共に王舎城をあとにして、ガンジス河をわたられ西北のヴェーサーリからクシナーラーに行かれましたが、この地で重い病にかかられました。 菩提樹の下で一切の苦悩を解脱された釈尊も生身の肉体の死によって完全な寂静の境地にはいられ、釈尊のような偉大なる聖者でも肉体の老・病・死はさけられなかったのです。諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽の詩頌でそのことを示されています。釈尊の御遺体は火葬にされ、マガダ国、釈迦族などの八ヵ国の人が八つに分け、それぞれの国に塔を建立して供養をすることになりました。 紀元前五世紀に起った仏教は釈尊の御入滅された紀元前三八三年ごろにはまだガンジス河中流域の中インドにひろまっていた地方教団でありましたが、紀元前三世紀のアショーカ王の出現で釈尊御入滅の百年後ごろから全インドから国境をこえ、民族をこえて流布されていきました。アショカ王は仏教に深く帰依していましたので、国内統一を成しとげてから、武力の勝利よりも「法」による勝利こそが大切であるとして、積極的に仏蹟巡拝を行い、隣国のシリア、エジプト、マケドニアへも仏法宣布の使をおくり仏教信仰をすすめています。セイロン(スリランカ)へ伝えられた南伝仏教、ガンダーラに栄えた説一切有部の仏教などであります。 仏教はマウリア王朝の統治政策や、アショーカ王の積極的仏教興隆策、さらには貿易商人の活動もあって世界宗教へと成長していきました。
VOL.100 2004.6.8
アショーカ王 (阿育・天愛喜見王)
釈尊の時代はマガダ国が大きな勢力をもっていましたが、ナンダ王朝の時にマケドニア王のアレキサンダー大王がギリシャを支配し、シリア、エジプトを征服し、インドまで侵攻してきました。しかし、アレキサンダー大王はインドを征服するまえの紀元前三二三年に亡くなりましたので、今度は逆にマガダ国のチャンドラグプタによりインドのギリシャ領は征服されてしまいます。 アショーカ王は性質狂暴で長兄や兄弟をことごとく殺害して紀元前二七〇年に王位につきました。そんな人物ですから領土欲・支配欲はつよく、対外積極策をとり、さらに領土を拡大しようとしましたが、紀元前二六一年に東部のカリンガとの間で戦争を起こしました。この戦争は悲惨を極め、多くの人命を奪ってしまい、戦後アショーカ王は戦争の悲痛に深く心を痛め、二度と戦争はしないと誓ったといわれています。 伝道師たちはインド全土のみならず西アジアからアフリカ、ヨーロッパの各国の布教にその生涯をささげました。アショーカ王の息子と娘はセイロン(スリランカ)に派遣されています。またこの頃より誕生の地ルンビニー、成道の地ブッダガヤー、初転法輪の地サールナート、涅槃の地クシナガラや、法華経が説かれた霊鷲山のあるラージャグリハ(王舎城)、祇園精舎のあるシュラーヴァスティー(舎衛城)などの中インド中心の霊場参拝もさかんになりましたが全インド各地に建立された仏塔はより多くの人に崇拝され、釈尊の教えを信仰する人びとも急増しました。 インドでは「輪廻転生」という何度でも生まれかわるということが信じられていましたが、釈尊もまたこの世に出現されるまで前の世があり「菩薩」として仏道修行をつまれていたのです。その仏道修行は「六波羅密」で布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の完成を目標とするものでありました。このようにアショーカ王の仏教保護政策により仏教は全世界へ広まっていきますが、同時に釈尊の偉大さも超人化されるようになりました。 紀元前三世紀ごろに釈尊の前世物語がジャータカ物語として成立し南方に伝わっていき上座部のお経として収められ世界各地に伝えられていきました。イソップ物語とかアラビアンナイトにもこの説話があり、日本でも今昔物語や宇治拾遺物語などにもでてくる説話です。仏教信仰はこのようにアショーカ王の仏塔建立により全インドに広がり、発展していきます。当時のインドは経済発展期であり多くの王侯貴族や長者と呼ばれている大商人たちが仏教教団を外護し金品を布施しましたので僧院は豊かになり充実していました。苦からの解脱と中道を説く平和主義の仏教に帰依し社会の安定を祈る人が多くいたのです。 釈尊が悟りを開かれてから入滅されるまでの一生は大衆の苦悩を救済することであり、ジャータカの主張も他のために自己の生命すら布施する菩薩の利他行でありました。すべての人とともに悟りを開き、苦しみから解脱するという「自利」のためには「他利」の修行なしでは完成しないとする「自利他利」こそ自分も仏になり他者も仏になってもらうとする菩薩行を理想とする仏教者が出現します。
VOL.101 2004.7.27
大乗仏教の菩薩と経典
紀元前二世紀の終りにヒンドゥー教が西インドを中心に広まりつつありましたころ、部派仏教の分立が進行しました。またこのころ仏教信奉者の寄進で、塔や寺院の建立が盛んになり、新しい仏教の推進がたかまって大乗固有の経巻を成立させました。 大乗というのは、智慧と慈悲の法で無上の自他の利益を成就するから大であり、実りある菩薩の道へすべての大衆を導くので乗であるというのです。「上求菩提下化衆生」の旗をかかげたとして徳川家康は有名ですが、「上求菩提」というのは、自分の悟りを求めることで「自利」であり、「下化衆生」とは、衆生を教化することで「利他」のことです。 自利(悟り)を求め、他利のため活躍することを菩薩行といい、これを実践することで阿羅漢の世界を超えて仏になれるし、「一切衆生悉有仏性」とし、一切のものは生まれながらに「仏性」をもっているので、すべてを仏の位に導くことができるとしています。 大乗経典が成立したのは釈尊滅後三百年ころのことで「般若」「華厳」「法華」「浄土」等の経典ができますが、その数は一二六〇部三五二七経もあることが確認されています。 「般若経」は六百巻ありますが、その中心は「空」にあります。すべては「原因」と「縁」からなりたっていますが、因と縁が変わればすべては変化するので、絶対的、固定的な存在はなく、あらゆるものは本体「空」である。したがって自分のもの、自分の考えに執着することは無駄であると説かれています。 「法華経」は妙法蓮華経の略称で、アジア諸地域でもっとも信奉され、だれでも仏になれるという一仏乗と、釈尊は永遠の存在であり久遠実成の釈尊であることを説いています。法華経では小乗と大乗を法華一乗に帰一させることを主張しています。日蓮聖人はこの経典に帰依して法華宗を興しました。 このように大乗経典が多数生まれましたので、そのどれを所依の教典とするかで多くの宗派が生まれることとなりました。また仏さまも多数あり、三世十方の諸仏と呼ばれています。三世とは過去・現在・未来のことで過去に七仏あり、未来仏は弥勒菩薩が五六億七千万年後に弥勒仏として出現されることになっています。現在仏には地蔵菩薩や観世音菩薩などがあてられています。 十方というのは東・西・南・北・東南・東北・西南・西北・上・下のことで無限の時間、無限の空間の中に無数の仏さまがおいでになるとしています。そして、さらに宇宙の真理・宇宙自体が仏だという「法身仏」として毘盧舎那仏、密教の大日如来などの仏さまとか、無限の期間の修行によって仏となった「報身仏」として阿弥陀如来や薬師如来があり、釈尊のように人間世界に生まれ、悟りを開き、涅槃の世界に入られた「応身仏」が考えられました。菩薩も仏智を持ちつつ衆生救済の願のため菩薩行をされているとしています。
VOL.103 2004.11.10
法華経の成立
歴史上の人物としての釈尊が伝道された「ことば」は多くの人びとの記憶によって語りつたえられましたが、完全なかたちで釈尊の「ことば」が残されたというものはどこにも存在しておりません。釈尊の「ことば」が記述されたのは随分の時を経過したのちのことで、釈尊滅後百二十年もすぎてからのことでありました。
VOL.111 2005.3.29
カニシカ王
アショーカ王の仏教宣揚以来約三百年、仏教は中央アジア諸国に根拠地をもって栄えます。東漸して中国へも伝えられましたが、インドで成立したシュンガ王朝がバラモン教を崇拝し、仏教を排斥しましたので、仏教徒の多くは西北インドや南方に逃げてしまいます。
VOL.116 2005.8.2
八宗の祖 竜樹(ナーガールジュナ)
大乗仏教が華々しく展開されて、多数の経典が生まれましたが、大乗思想を哲学的に理論づけたのが竜樹であります。以後の大乗思想は、その理論の基礎のうえに展開され、無着、世親、陳那などの有名な思想家にうけつがれ大乗仏教が世界に発展していきました。 |
ZEPHYRANTHES
2007
ZEPHYRANTHES
All Rights
Reserved