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VOL.133 2008.5.30
悩みの解決はできるか
仏教渡来以前の日本には、今日もなお伝承されているような独特な民族的呪物崇拝があったが、そうした治病・延命・息災・降雨などの現実的願望を、民族的呪物のかわりに仏教的呪物として受容されたことに、仏教思想を誤解される理由が存在する。 日本最初の仏教思想研究者であった聖徳太子ですらが四天王像に「今若し我をして敵に勝たしめば、必ず当に護世四天王奉為に、寺塔を起し立てむ」と祈願し懺悔滅罪とか追善増善という宗教的願望より現世利益的崇拝であった。このことは天平文化の頃になると更にその傾向が強まる感がある。 仏教興隆に全情熱を傾けた聖武天皇は国分寺を創建、奈良にはのべ260万人を動員して17.82メートルの大仏を建立、唐から鑑真が来朝すると光明皇后と共に受戒するなど、まさに「三宝の奴」であるが、諸国に七重塔を造って「最勝王経」「法華経」等を奉納することを命じていても、その思想内容よりは「法華経」の功徳で、病気平癒・災害消除・国家安寧・鎮護国家を祈るものであった。 天平時代において得度者の資格として「法華経」の暗誦が義務づけられていたが、それは「法華経」の本質が理解され、法華思想が評価されたのではなく、民衆にまで流布した「聖なる経典」の権威に利用価値があったわけであり、その暗誦が義務づけられた僧尼もまた、世俗の一般大衆とはちがって「聖なる人」として、課役・刑罰・賦役は免除されたが、治部省 玄蕃寮で資格審査され、朝廷の命令で受戒し、小乗的戒律を強制される朝廷の法要儀式執行人にすぎなかったわけである。だから彼等が「法華経」を暗誦するまで読んだとしても、現世利益が中心で無批判的盲目的で法華思想の反省はされていない。 また国分寺が諸国に建立されたのも、国司の管理下に寺院・仏像を造立して地方政治機関の権威づけに役だったのである。律令政府が仏教を権力補強に利用したために、真の仏教者は道融のように隠遁するか、仏教教学研究を始めるほかはなかったのである。行基のような社会事業家は僧尼統制の違反者であった。 このような状態で朝廷に於ける仏教理解が現世利益・病気平癒・災害消除・国土厳浄・人民康楽等であったから、庶民の仏教理解は更に現世的である。「日本霊異記」にそうした話は多いが、「南無、銅銭一万貫、白米一万石、美女大勢施し給え」と観音に願をかけて現世に利益を得たとか、写経中にみだらな心をおこし「嬢の背に踞りおり、裳を挙げて婚ふ」たところ悪死を得たとかの類で極めて呪物的信仰である。 もちろん治病・増益・天下泰平等の世間的課題のみではなく、追善増善・精神浄福・三宝興隆・浄土往生等の宗教的課題も仏教信仰の対象であったが、そして浄土教の発展、鎌倉仏教等で後者の傾向は増加するが、今日迄依然として前者的課題が日本仏教の対象となっているのである。最近の仏教系新興宗教の流行が何よりそれを強く内包しているが、仏教思想が今日誤解される理由は、仏教がこのように現世的課題解決の方法として祈念・帰依の法力を主張して来たことにある。 日本古来の民族的呪物崇拝にかわって、仏教的呪物が進出したのは何故であろうか。仏像・経巻・剃髪染衣の僧が呪力をもつものとして上は天皇より下は庶民に至るまで、すべての人間的課題を解決する手段として崇拝されるに至ったのであるが、この仏教の呪物化傾向は三宝を呪力化し、課題も呪力的課題として今日迄仏教と結合してしまった。そのことが近代的理性、あるいは合理性と矛盾し、現代人と仏教を断絶さす理由となる。 しかし、仏像を風変りな彫刻としか理解できない現代人は、それを呪力をもつ仏として崇拝した古代人を笑うことができない。経典をハンサな形而上学としてしか理解できないものにとって、古代の持経者たちの現世信仰を批判することはできないであろう。つまり仏、法、僧という対象的な仏像・経巻・僧侶の三宝ではなく、それによって象徴されている、その根底にあるもの、すなわち「真諦三宝」こそが真実の仏教であることに気付かねばならない。これはまことに主体的で根本的で超理性的なものであるため、理解しにくく一般人にとって三宝といえば、仏像であり、経巻であり、法衣の僧であったわけである。 しかしそれが仏教として成立するためには、単なる芸術でも、形而上学でも、人格的なものでもなく、それらを超越した独自の価値を根底に有するものであったはずである。聖徳太子の篤敬三宝というのは、仏、法、僧を単に敬うことであっても、呪物的三宝、観光的三宝ではなくて、それによって象徴される根本的なものへの篤敬であったはずである。そしてそれは「真諦三宝」であり、「自性三宝」といわれるものである。 ところが現代人は仏教をこの真諦三宝として理解せず、観光的三宝とでもいうべきもので仏教を考えている。しかし、その仏教はすでに「真諦三宝」を知ることのなかった朱子学者や、国学者によって廃仏されたものである。国学者の批判や明治以降の欧化主義のなかでなお今日迄仏教が伝えられ、評価されているのは、「真諦三宝」の価値によるもので、それは人間性自身の宿命からの脱却を課題としたものであるから、人間が理性的になればなる程真価を発揮する思想をもつからにほかならない。
VOL.134 2008.11.18 仏教思想はかくして古代以来呪物的色調をもちながらも、その根底に「真諦三宝」を保持して今日まで発展してきたが、現代に於ける呪物信仰的新興宗教と観光仏教が、その思想を無視しているので、明治百年間の精神的風潮がそれに加わって仏教思想断絶の状況を現出してしまったが、仏教思想の本質から見れば、人間存在の本質を課題とした思想であるので、いかなる時代になろうとも仏教的課題を無視することは許されず、これを無視したものを根底とする思想は人類史を発展させはしないであろう。 仏教的課題というのは、「生死の一大事」と表現されるものであるが、それは人間である以上、誰しも考えねばならない人間にとってもっとも普遍性をもつ課題である。現代の精神的風潮が仏教と断絶していようといまいと、仏教のもつ根本課題というものは人間が生存する限り、主体的にとりくまねばならない人間共通の重大課題であり、それをさけて通ることは人間としてゆるされないものである。 ところで、悩みをもたぬ人間はなかろうが、自己の人生、自己をとりまく社会等を反省すれば必ず解決しなければならぬ課題と対決せねばならず、それが悩みの原因となる。課題をもたぬ人間、悩みをもたぬ人間はもはや成長することも、思考することもありえぬ人間である。 人間のもつ悩みには現実的歴史的な悩みと、超現実的超歴史的な悩みがある。そして現実的な悩みには個人的なものと社会的なものとがあるが、世界は一体化しつつあり、交通・通信の発達で社会的課題の解決すべき問題は増加の一途をたどり、社会は複雑になっているので、悩みは増加するばかりである。 近代の思想は社会的課題を解決することによって個人的課題を消滅させようとするマルクス主義と、個人的課題の追求のなかで社会的課題をも解決しようとした実存主義があるが、その両者とも真に人間の救済を実現することが困難であった。しかし、この現実的歴史的課題解決には自然科学をはじめとする諸科学が動員され、近代的理性がその解決の主役をつとめることはいう迄もない。けれども近代の機械文明が真に人間の悩みを解決するどころか、まったく新しい悩みを現出し、悩み解決の方法が、また新しい悩みの原因となるように、それのみの解決は困難なようである。 人間のもつ、もう一方の悩みとは、超現実的超歴史的悩みであることを先程のべたが、この悩みの解決は現実的方法、つまり科学的手段で解決することはできない。それは人間の宿命といわれるもので、実存主義者が好んで課題とするものである。人間の宿命には、人間の存在面から来る悩みと、人間の価値面からくる宿命とがある。 人間の存在というものは限られた時間、空間の中で生存するという制約をもっている。平易にいえば、何時か死ぬということで哲学的にいえば、生死の二律背反を脱することが不可能な存在であるということだ。ところが人間の悩みは死ぬことにあるのではなく、生死の二律背反に悩むのである。生も死も、有も無も共に悩みであり宿命である。 仏教ではこの悩みを生老病死とか、無常とかで表現している。ところが人間は生死の二律背反に悩むだけではなく、価値面の制約にも悩むのである。価値と反価値の二律背反であるが、これは罪といわれるものである。人間の内面というものはまことに複雑で、真も妄も、美も醜も、善も悪もともに罪であることに気付くのであるが、罪を悩むのではなく、価値、反価値の二律背反に悩むのである。 仏教が古来苦とか、穢とか、虚妄とかで指摘してきたのはこの二律背反である。しかもこの悩みが主体的なものであるから、二つの二律背反は別個のものではなく、不可分のものとして人間にせまり、人間の宿命を形成する。人間にとってもっとも深い自覚とは、この人間自身の宿命を自覚する。つまり二律背反という不合理が自己の本質であることに理性が気付くことであると仏教は教えている。 近世における理性的人間の自覚も仏教ほど深く人間性に対する徹底した反省はしておらず、実存的人間観も、人間が絶望的であることを示しただけで、この二律背反にニヒリズムの根本原因があることに気付いていない。さらに仏教では、この超歴史的超現実的二律背反的存在としての人間の本質から当然ながら歴史的現実的課題の解決にもそれが深く関与することを教える。 つまり歴史的課題と超歴史的課題は別個に、無関係には存在しないので、歴史的現実的課題解決の方法としては、なる程近代科学の成果が大きく役割するであろうが、それが人間を対象とする限り、人類社会の繁栄をめざすものである時、人間の本質面、超歴史性、超現実性を無視することは許されない。仏教の課題は、人間の絶対的な二律背反に取りくみ、人間の現実的歴史的な悩みをも根底からささえようとするものである。 仏教でいう篤敬三宝は、かつて崇拝されて来た対象物の三宝ではなく、真諦三宝でなければならないし、それこそ理性の宿命であった二律背反の脱却をめざすものである。中世的他律的人間、キリスト教的世界から脱却した人間が、自律的理性に覚め近世的理性的人間を宣言したが、人間の二律背反に直面しニヒリズムにおちいった現代人にとって、人間を根本的に救うものは自性三宝の自覚以外にない。「理性の二律背反を脱して理性に生き、歴史を超えて歴史に生きる」ことを仏教はしめしている。 (初出:「明治百年と仏教思想」 1970年) |
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VOL.128 2007.5.31
忘れられた「心の糧」 VOL.129 2007.6.28
日本に仏教が渡来したのは継体天皇の十六年(五二二)二月のことで、中国の梁から来た司馬達等が、大和の高市郡田原に草庵を建て、仏像を礼拝したのが最初で、それまで古墳づくりに熱中していた日本に、まったく新しい文化が帰化人によってもたらされたことによる。正式に朝廷へ伝わるのは、「日本書紀」によると欽明天皇七年(五三八)で、百済の聖明王から仏教、経巻が献上されたことからであるが、「法華経」などの経巻はややおくれて敏達天皇六年(五七七)に渡来したことが「扶桑略記」に記録されている。
VOL.130 2007.10.15
聖徳太子は朝鮮の高僧慧慈、慧聡について仏教を学んだということであるので、かなり仏教に精通し、信仰していた。それは十七条憲法の第二条、篤敬三宝にもみられ、三宝を敬うことで一切の狂ったものを直す究極規範としたこと、仏教興隆を国の基本方針とし、隋まで使者を送り、三宝輸入に努めたこと等で知ることができる。
VOL.132 2008.3.20
江戸時代を通じて、従来みられなかった廃仏思想が流行しているが、それは朱子学者を中心としたもので、儒教の倫理主義的立場からの批判である。近世朱子学の祖とされている藤原惺窩が「惺窩先生行状」で「釈氏は仁種、義理を絶滅する」から異端であるとし、その門人の林羅山は「論三人」で、仏教は「君臣、父子を棄てて道を求める」ものと否定するし、室鳩巣は仏教は五倫五常を離れ、人事物理を具せず、ただ空しく霊覚の心を求めるものと批判している。これは君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信等を人間究極の生活規範とする考え方で、階層的封建身分秩序を合理化する理念から、仏教の来世主義、彼岸主義を批判しているにすぎないものである。 |
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VOL.120 2006.5.15
行学二道の精進と時代にあった布教の実践
御生誕八百年にむけて 法華宗真門流では「高祖、開祖の御心にかえろう。合掌しあう友をつくろう」のスローガンで合掌運動を展開しております。昨年十月には、後柏原天皇より「法華宗日像菩薩正統一門之開闢常不軽院日真者称大和尚也」との御宸翰を賜わりましてより五百年の聖年をむかえ慶讃法要を厳修いたしましたが、天皇陛下より御供物を御下賜いただきまして、御叡慮に報謝しつつ厳粛に記念法要をつとめさせていただき、日像菩薩や開祖の不惜身命の艱難、御苦労を想い破邪顕正、四海皆帰妙法の誓いに邁進する願いをあらたにいたしました。 これから日蓮聖人御生誕八百年にむけて、宗門護持興隆、合掌運動を展開しなければなりませんが、行学二道の精進と今の時代にあった布教の実践が必要なことはいうまでもありません。「行学の二道をはげみ候べし、行学絶えなば仏法あるべからず、われもいたし、人をも教化候え、行学は信心よりおこるべく候」の御教示はどんな時代になっても大切だと思います。信心と信念の教学を樹立し、時代のニーズに合致した布教を推進しなければなりません。この聖年を期にホームページによる布教も開始いたします。 さて、現在の社会が危機的状況であるという認識は誰でも感じていることですが、国際競争力の低下、不況、失業、財政の悪化、特に治安の悪化は生命軽視の風潮となり、環境問題とともに極めて深刻になってきました。中国の李鵬元首相がオーストラリアで「日本をこのままの状態にしておけば二十一世紀には国の存在が急速に融けて地球上からなくなってしまう」と公言していたことが現実のことになるのでしょうか。「国際化」とか「グローバリゼーション」のうたい文句につられて、日本は国としてのアイデンティティーを喪失して急速に融けてなくなるのでしょうか。 明治維新は文明開化に流されることなく、「和魂洋才」で日本の独立自尊を主張して近代日本を形成したのですが、大正時代以降になると日本の心を忘れて「洋魂洋才」を主張するものが多く、ついに戦争の敗北ということになりました。そして、その後の経済成長で「無魂洋才」となりエコノミックアニマルの国といわれていましたが、これもバブルの崩壊で「無魂無才」の危機の時代をむかえたのです。 社会問題への統一見解、統一行動を 現在の日本は、明治維新よりももっと大きな変革期に突入しています。少子高齢化はついに毎年六十万人づつ人口が減少して百年後には、人口が半減することがほぼ確実になってきました。土地も財産も価値を下げて、その日の生活にも困る人が急増しています。若者のフリーターが四百五十万人になっており低所得層が増加していますし、精神病予備軍や覇気のない若者がどんどん増加しています。環境の問題も宇宙空間の有機物に含まれているウイルスの報告もあり、宇宙空間に異変が起っており、天災人災が急増するともいわれております。 VOL.121 2006.6.28
今までの常識は非常識となり、世の中は「大濁世、大混迷の時代」です。先哲が「宗教を失った社会は道徳も崩壊し、人間は知的野獣となる」と予告した精神的危機に、われわれはあまりにも多岐にわたる課題の前に無力感にうちひしがれてしまいます。
「日蓮聖人門連だより」 第29号 平成16年2月16日 |
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