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VOL.106 2005.2.19
妙法蓮華経はどんなお経
法華経こそお釈迦さまがこの世に出現した本懐であると見ぬいた日蓮上人は、寿量品第十六を根拠として、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という十界は、それぞれの境地にそれぞれ備わり(十界互具)、いわば私たちの日常の心にあらゆる事象がすべて備わっている(一念三千)という教義を樹立されました。
「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九種の境地は、無始無終久遠である本仏の境地にふくまれている」ということであり、「本仏の境地は無始無終久遠である九種の境地にそれぞれに備わっている」ということであります。
私たちが孤独にさいなまれ悩み苦しみ、あるいは怒り心頭に発するときは、私たちに備わる地獄界が表面に出たときであり、貪り求めるときは心の中の餓鬼界が外面に顔を出したときであり、他者と張り合い争うときは修羅界が他界を圧したときであり、同情して慈悲の手をさしのべるときは菩薩の心が芽吹いたときです。こうみてくると、私たちに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九界が備わっていることは経験上理解することができますが、はたして「仏界」が私たちの心に宿っているのか、仏がわが心の中に住んでいるのかという段になると、なかなか納得しにくいのが私たちです。
お釈迦さまが仏になられる前に修行したあらゆる修行(因行)も、また、お釈迦さまが仏になってから後の「仏というもの」の全部(果徳)も、みなこの妙法蓮華経の五字に備わっているのであり、私たちがこの五字を受持すれば、お釈迦さまが仏になる前に修行したあらゆることも、仏になってから得たすべてのものも、自然に私たちにゆずられるのであります。
私たちは末代悪世の凡夫であるから宗教的には低俗であるかもしれない。しかし「南無妙法蓮華経」と口に唱えることはできます。南無妙法蓮華経と唱えさえすれば、私たちの心の中の「仏界」が姿を現す、つまり「成仏できる」のであるといわれています。
日蓮上人は、南無妙法蓮華経と口称すると、どうしてそこに浄土が顕現し、また唱えた人が何故に成仏できるのか、ということについて「法華初心成仏抄」でわかりやすく教えておられます。
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およそ妙法蓮華経とは、われら衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連らの仏性と、文殊・弥勒らの仏性と、三世の諸仏のさとりの妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。故にひとたび妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・一切衆生の心中の仏性を、唯一声に喚び顕わし奉る功徳は無量無辺なり。
わが己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、わが己心中の仏性が、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕われ給うところを仏とはいうなり。たとえば籠の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。空とぶ鳥の集まれば、籠の中の鳥も出でんとするがごとし。口に妙法をよび奉れば、わが身の仏性もよばれてかならず顕われ給う。梵王・帝釈の仏性はよばれてわれらを守り給う。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生の皆成仏道の妙法というはこれなり。 |
日蓮上人は、私たちの心の中に「仏性」(仏のタネ・仏となる可能性)があり、私たちが南無妙法蓮華経と口に唱えるということは、心の中の仏性を「呼び出す」ことであるとし、南無妙法蓮華経と呼びさえすれば「仏」(さとりの境地)も呼ばれて私たちに近よってくるといわれ、心の中から呼び出された仏性と、呼び寄せられた仏とは同質・全同であるから、そこで和合して一つになる。仏と仏たちが合体する、それが成仏であり、そこを「浄土」と名づけるといわれています。
口に出して南無妙法蓮華経と唱えれば、心の中の仏が顕現して生きながらにして成仏できるのです。さらに現世の信心が未来を利益し、未来永劫にわたって久遠の本仏と共にいることができるのです。つまり、現世においてお題目を唱える私たちは、寿命を全うしてあの世へ移ってからは、「常に霊鷲山に在り」(寿量品)という久遠の本仏の御許・霊鷲山に往詣することができるのです。
仏に聞きとどけられるようなお題目をお唱えすることによって、現世において成仏し、命終してからは霊山往詣できるのであってみれば、毎日の生活にあくせくするばかりでなく、日蓮上人の唱えたのと同じようなお題目を、私も、あなたもお唱えしたいものではありませんか。そのためには健康を保ち、悩みごとや苦しみを解決し、経済的にも豊かでなければなりませんがそれらはお題目を唱えれば、自ずと授かることではあるにしても、ご本尊やご守護神の加被力を得ての上での唱題であれば、相乗効果も働いて、さらに一層の拍車がかけられることとなるのです。

岩本弥八郎、徳畑仁右ヱ門寄進 天明4年(1784)
VOL.107 2005.2.21
本尊さまは何ですか
法華経は、未来の伝道者として上行菩薩等を上首とする無数の菩薩たちを地中の虚空から湧き出させ(湧出品)、それらの菩薩たちは、何億万年という思いも及ばぬ遠い昔(無始久遠)から、お釈迦さまが教化して弟子とした菩薩たちである(寿量品)と説いています。
恒河のほとり、菩提樹の下で三千余年前に成仏したと思われていたお釈迦さまは、実は「無始・無終の寿命を持つ救済主」・「久遠の本仏」がこの世に出現した姿であったのです。「久遠の本仏」とは、過去にも始めがなく、未来にも終わりがない永久不変の存在であって、常に悩み苦しみもだえる人びとを教化し救済しているのであり、この「久遠の本仏」が、私たちの「ご本尊」なのです。
本尊の形態は、本師であるシャバの上に、南無妙法蓮華経の宝塔がそそりたち、その塔の左右にインドに生まれたお釈迦さまと多宝仏とがならび、その横に久遠の本仏の脇士(仏をたすけ、人びとを導く大士)である上行ボサツ・無辺行ボサツ・浄行ボサツ・安立行ボサツという四菩薩がならび、そのしもにモンジュシリボサツやミロクボサツなどをはじめとするインドのお釈迦さまの脇士が四菩薩の従者としてならび、その他のボサツ、他の国のボサツは一般大衆が貴賓席をのぞむような場所につき、他の仏土諸仏は大地の上に陣どっているのである。 (本尊抄)
この文章を一幅の紙上に図示したのが「大曼荼羅」です。日蓮上人は、文永十年(一二七三)五月八日に「本尊抄」を述作し、そののち十三日たった五月二十一日に、初めてこの大曼荼羅を図顕し、それ以来多くの弟子・信者たちに「ご本尊」として授与され、七百年後の現在でも「百数十幅」にも及ぶ「日蓮上人自筆の大曼荼羅本尊」が伝承されております。文字で書かれたこの「大曼荼羅」を、仏像をもって端的に表現したものが「一塔両尊四士」又は「三宝さま」と呼ばれるご本尊です。
中央に南無妙法蓮華経と書かれた宝塔が立ち、その宝塔の左にお釈迦さま、右に多宝如来が共に合掌して座し(以上が三宝さま)、その下座に上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が安置された形が「一塔(宝塔)両尊(釈迦・多宝)四士(四菩薩)像」による本尊の型であります。
日蓮上人は「本尊抄」で正法時代(お釈迦さま亡きあとの千年間)・像法時代(正法につぐ千年間)の二千年間は、カショウ尊者・アナン尊者を脇士とするお釈迦さまの像や、モンジュシリボサツやフゲンボサツを脇士とするお釈迦さまの像を作ったり書いたりして本尊としたが、その時代には寿量品で説きあかされた久遠の本仏を本尊としたことは一度もないのである。末法時代(日蓮上人の時代)になって、はじめて久遠の本仏の像があらわされたといわれています。
カショウ・アナンを脇士とし、あるいはモンジュ・フゲンを脇士とするお釈迦さまは、インドで活躍し、インドで亡くなったお釈迦さまである。日蓮上人の意味するお釈迦さまは、もちろんインドで活躍されたお釈迦さまではあるものの、そのお釈迦さまを仏たらしめた本身・久遠実成のお釈迦さまである。そのことをはっきりと区別するために日蓮上人は、カショウやモンジュではなく、地湧の四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)を脇士として表現されました。
お釈迦さまとはいうものの他の宗派でお祀りするお釈迦さまではなく、私たちの奉ずる「ご本尊」とは、言葉で言えば「久遠の本仏」であり、形で表現するのには、「大曼荼羅」、「一塔両尊(三宝さま)」ということをご理解ください。

日脩上人筆の智願院画像と像賛 天正9年(1581)
VOL.108 2005.2.28
開山の智願院さま
開山智願院日岏上人は、永正十三年(1516)にお生まれになりました。
九才の春、当時最も有名であり、学徳ともに優れていた本隆寺開祖、常不軽院日真大和尚の門に入り、剃髪度牒を受けて名を圭讃と改めました。しかしながら、お師匠さまの日真大和尚は、この時すでに八十二才であり、三年後の享禄元年四月に八十五才でおなくなりになったのです。開山さまは、十三才の時に教え親であるお師匠さまになくなられ途方にくれてしまいました。
そこで同じ日真大和尚のお弟子で「仏像造不之論」を著し、北陸に舞鶴に、はたまた叡山等で学説、徳行の高かった本隆寺第六世証誠院日雄上人のお弟子にして頂いたのであります。
ご開山さまは、これから約二十年間昼となく夜となく師日雄上人に御給仕されることは勿論、数学を研鑽され、またご自身は質素な衣服と粗末な飲食で忍耐と辛抱をつづけられ、行学とも止暇断眠の修行をつづけられたのであります。やがてその御苦労と御修業がみのりまして、二祖の日鎮上人は御自分のお名の智願院というのを、御開祖さまの日岏上人にお譲りになって大いに大法弘通、広宣流布に更に精進するよう励まされたということです。
名実ともに備わった御開山智願院さまは、いよいよ開祖日真大和尚の遺言といわれる「心を宗外の広宣流布に向けて勇猛精進せよ」を実行にうつすときがきたようです。天文十五年三十才のころ御師匠さまの発祥の地、山陰に向かって行脚布教の途に発足せられたのであります。村に人あれば法を説き、野に民あらば法華経を唱え、歩を止めては題目を高唱し法鼓を打って巡錫すること数年に及びました。
やがてこのご開山さまの御修行の有様を耳にした足立権太兵衛基則という武士が、法門の話をきき、そのお人がらに感服して境内地を寄進し、寺を建てて上人の道場として大信者となったのです。上人はこの寺を妙法寺と名づけ、法華経本門の信行道場とされたのです。時に天文二十二年(一五五三)上人三十才のことでありました。
さて、妙法寺を開創されました翌年、上杉謙信と武田信玄とが川中島で戦い、また織田信長が今川義元と桶狭間に戦うなど、世情騒然の有様であったのです。天文の初めには叡山の僧徒が京都二十一ヶ寺の本山を焼討にし、総本山本隆寺も堺に非難するなど大変な時でありました。京都に帰られた開山さまは、京都洛北の信者森吉太夫から京都在住の一寺を寄進されましたが、この寺が本久寺であります。森吉太夫は丹波周山の人というのみで、足立基則と関係があったのかもしれません。
織田信長が足利将軍義昭を京都より追放し、室町幕府が滅亡した天正の初め、日岏上人は再び山陰地方に巡られ、黒井に蓮華寺を建立されました。更に摂津に行かれ、不惜身命の行化を続けられ、多田満仲の末流で能勢長左ェ門頼高が信者となります。この地に永享八年頃創建された智海坊という小庵があったのを再興して寺を建立、妙法蓮華経を能く持ち奉るということから持経寺と命名されました。そして六十歳の坂を越えられてから本久寺に止住されたと思われます。
日岏上人は、本隆寺七祖日脩上人の法兄であり、この日脩上人の書かれたものが妙法寺に残されていますが、それによりますと、日岏上人は二祖日鎮上人の号を頂き、数ヶ寺を開き、これを本隆寺に嘱させ言行能く合致したまことに遊方の大士である。天正十一年五月五日日岏上人の臨終に際し、枕側に座し、ともに誦経唱題し、永袂の情溢れて衣袖を湿す。とあります。智願院日岏上人の偉業をしのび、勇猛精進、法華経本門寿量の弘教に不惜身命の願行に励まねばなりません。
矢放日城「日岏上人さま」

丹波 妙法寺 本堂 三宝尊像(中央奥) 元和7年(1621)本行寺日圭開眼
中央 内藤雅雲仏師の日蓮聖人像
VOL.109 2005.3.16
法華宗はどんな宗旨
【本尊】 「法華経」の「如来寿量品」の「久遠実成の釈迦牟尼仏」(永遠の救いを示す仏さま)を本尊とします。本尊の形は、一塔両尊四士など仏像によるものと、筆書きの大曼荼羅本尊がありますが、それらはすべて「法華経」にある諸仏の姿をあらわしています。
妙法寺の本堂に安置されている本尊は、「一塔両尊四士」で、一塔とは「南無妙法蓮華経」の七字を書いた題目塔のことで、両尊は釈迦如来と多宝如来、四士は「法華経」の四大菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)です。題目塔を中心に向かって左に釈迦如来坐像、右に多宝如来坐像、その左右外側に四大菩薩を脇侍としておまつりします。
【守護神】 法華宗では、守護神として鬼子母神、番神さんを「法華経」の修行者を守ってくれる善神としておまつりしています。
妙法寺では「妙見大菩薩」が古くから信仰されており「開運」「交通安全」「進学成就」の神様としてお祭りしています。
末法の世に「法華経」をひろめようとすると、いろいろな障害がありますが「法華経」を信仰する人を諸菩薩善神が必ず守ってくれると「法華経」に書かれてあります。
【経典】 法華経を根本経典とします。正しくは「妙法蓮華経」といい鳩摩羅什の漢訳で八巻二十八品からなります。
「法華経」の前半は方便品が中心で人間は千差万別でいろいろな人がいますが、身心ともに完全円満な仏に成る仏性をもっているので、それを覚って信仰することの大切さが説かれています。ものごとには必ず因があり、それが、縁にふれて現象が起こると「縁起の法」が説かれますが、これもまた方便であり究極の真理へ導く手段とされています。
「法華経」の後半は寿量品が中心です。無限の時間、空間に本仏がおいでになり、一切の神、仏はこれの分身であり、一切の帰着するところも本仏にあることが教えられています。人種・民族・優劣・善悪など差があります。本来は平等無差別であり、無始以来久遠の本仏の愛子として生を受け、その仏種にめざめ生きて、また本仏の世界へ帰るのが人の一生と説かれています。我利我欲の妄想をすてて法華経の菩薩道を実践して、本仏中心の平等互恵の精進で生きると四苦八苦の苦しみから救われます。
【妙法寺の本山】 法華宗真門流といい京都市上京区智恵光院五辻上ルの本隆寺です。京都布教の第一人者日像上人の教えを奉じ、日真大和尚が本隆寺を建てて、長享二年(一四八八)四月二十八日に独立されました。妙法寺には本宗で最も古い日真大和尚の曼荼羅が所蔵されていますし、霊応殿中央には日真大和尚の尊像がお祭りしてあります。

日真大和尚像 江戸時代
本隆寺
京都市上京区紋屋町にある。法華宗真門流総本山。もと妙本寺(妙顕寺)に属した
常不軽院日真は本迹勝劣を主張して大林坊日鎮らとともに同寺から独立、延徳元年
(1489)四条大宮に本隆寺を創設、日真門流の拠点とした。京都二十一ヵ本山の一つ。
天文法華の乱後移転を重ねたが、天正十二年(1584)豊臣秀吉の命により現在地に
移転、後奈良天皇の外護をうける。寛永十年(1633)の末寺帳「本隆寺之帳」によれば
五十ヵ寺を抱えている。天明八年(1788)京都の大火に諸寺とともに類火したが再建、
現在に至った。
〔参考文献〕 「本隆寺千代乃井」 拾遺都名所図会 一
「諸宗末寺帳 下」 大日本近世史料
「日蓮教団史 上」 立正大学日蓮教学研究所編
「京都の歴史 三」
(高木豊) 国史大辞典 吉川弘文館

日真大和尚筆本尊 延徳2年(1490)
VOL.110 2005.3.21
毎日のおつとめ
ご本尊・ご守護神・お位牌を祀るお仏壇の前に座った私たちは、まず「お灯明・ローソク」に火をともし、お線香に火を点じ、リンを打ち鳴らしてから合掌・礼拝し、おごそかに「勧請」します。「これから御法味を捧げます(読経・唱題します)から、どうぞお出でください」といった意味のご招待の言葉であり、むずかしくて覚えられないという人は「ご本尊さま、ご守護神さま、ご先祖さま、おつとめをいたしますから、どうぞお受けください」と言上してもよいわけです。
「勧請」のつぎには「方便品第二」「寿量品第十六(自我偈)」と続くが、時間があれば「自我偈」は一回に限らず三回繰り返して読誦するのがよろしい。
人によっては「お経のフシがわからないから読経しない」というが、読経は歌謡曲とは違うのですから、上手下手を競う必要はありません。お説教をお釈迦さまにかわって代読するのであり、要するに声に出して棒読みにすればよいのですから、字の読める人は、どなたでも読経し、お釈迦さまの代理をつとめるべきです。もちろん、大勢の人と一緒に読経する時には「そろえる」ために、伸ばす所、ちぢめて読む箇所がありますので、覚えるときにはそのフシも覚えこむことがあとあとのためには便利であるのはいうまでもありません。
皆さまの多くは、「勧請文」と、終わりに述べる「祈願文・回向文」を省略されているようですが、他家を訪問するとき「こんにちは」と挨拶し、用件がすんでから「さようなら」と言って帰り、来客があれば「いらっしゃい」に始まって「お気をつけになってお帰りください」で終わるのと同じく、おつとめの場合にも「勧請」し、「読経・唱題」し、「祈願・回向」するようにしましょう。時間がなくて、おつとめできない人は、献灯・献香し、リンを打ってお題目を三回となえて拝礼するだけでもやむを得ません。時間のあるときは、お題目だけを二、三十分間となえるよりは、勧請・方便品・自我偈と形の整ったおつとめをした方がよいのです。
最後の回向は、一番簡単には「ご本尊さま、ご守護神さま、どうぞお守りください。
ご先祖さまがた、どうぞ成仏してください。南無妙法蓮華経」でもよいわけです。
VOL.112 2005.4.24
妙見さん

妙見大菩薩像 文政7年(1824)
妙見菩薩は、北斗七星または北極星を神格化した神さまです。国土を守り、災を消し敵を退け人の幸せと寿命を増す菩薩で、星の中でも最もすぐれ「神仙中の仙であり菩薩の大将なり」とされています。
道教に「鎮宅霊符」というお札があり、これをまつると家が鎮まり繁栄するという信仰があります。この霊符に七十二体の神像が描かれていますが、その中央に「尊星王」がひときわ大きくかかれていますが、これが妙見です。
妙見信仰は、この「鎮宅霊符神」の信仰と混じりながら、星の信仰から海上安全の神、貿易を営む大商人の信仰する商業の神、さらに「妙見」という名から眼病の神、さらには学問成就の神として民間に広く尊信されていきました。
日蓮上人は「北斗七星・二十八宿・無量の諸星・・・・あらゆる一切衆生のもっている所の仏性を妙法蓮華経と名づける・・・・」といわれ信仰されました。
中世には、豪族や武家の間で守護神、軍神として多く信仰され、日蓮上人に帰依された千葉氏も妙見菩薩を守護神としています。
有名な「能勢の妙見さん」は日蓮宗真如寺の妙見堂のことです。能勢の領主であった能勢家は代々法華信仰と深い縁がありました。能勢頼次は本能寺の変で明智光秀に加担したため、豊臣秀吉に領地を奪われ岡山の妙勝寺に隠れていましたが、のち家康に仕え関ケ原の役で功をたてたため旧領をもとにもどしました。この頼次が日でりで困っている時祈願をして雨を降らせてくれた日乾に深く帰依して、一族をあげて法華信仰に入り能勢一円を法華に改宗させました。
この能勢家の守護神が「鎮宅霊符神」で、日乾により法華経で勧請するように改められ、これから能勢の妙見信仰が広まります。
妙見さんの坐像は能勢型といわれ、鎧を着て、剣を頭上にかかげ、左手で金剛印を結んだ形です。この剣はもと天に向かって持っておられたが、あまりに霊験があらたかすぎるので、受け太刀にされたといわれています。
妙法寺の妙見さんは、文政七年(一八二四)に日皓が、能勢家より御霊像を受けて妙見堂を建立されましたが、岩本の岡才にあったものの移築ともいわれ、さらに昭和九年に能勢妙見堂と同一の北辰殿が建立され「丹波妙見さん」として信仰されています。

丹波 妙見堂 昭和9年(1935) 650遠忌事業に建立 2005.3.7
VOL.113 2005.4.30
鬼子母神さま
日蓮上人は法華経の行者を諸天善神は必ず守ると確信されています。その中でも陀羅尼品には特に菩薩の代表として、薬王・勇施の二菩薩(二聖)と諸尊天の代表毘沙門・持国の二天王(二天)と十羅刹女・鬼子母神がとかれているところから二聖・二天・鬼子母神・十羅刹女を守護神としてまつります。正月に配布しております妙法寺の門札はこれを表しています。
日蓮上人の十羅刹女に対する帰敬は切実なものがあります。鬼子母神・十羅刹女は、法華経の行者・信者を守る。行者の信念を試すため障害を加えることがある。行者の身替わりとなり、迫害するものを罰する。行者が退転すればこれを許さず罰を加えると考えられていたようです。妙法寺でも御祈祷するときは、霊験あらたかな鬼子母神に祈り祈願するのです。
VOL.114 2005.5.14
妙法寺のおまつり
初詣
日蓮上人は「正月の一日は日のはじめ、月の始め、年のはじめ、春の始。これをもてなす人は、月の西より東をさして満つるが如く、日の東より西へわたりてあきらかなるが如く、徳もまさり人にも愛せられ候なり」と仰せられています。
法華宗信徒は、めでたく正月を迎えたならば、お仏壇に灯明をささげ、祝膳(ぞうに等)を供え、家族揃ってご本尊、ご先祖に対し、昨年の平穏無事を賜わった慈悲に感謝し、新しい年の年中安泰を祈り、読経、唱題することが、新年最初の行事であります。
年頭にご本尊に感謝申しあげ家族が健康で新年を迎えたことを報告する祈りの功徳は誠に大なるものがあり、法華経を祭らないところへ参詣するのは、わざわいを外よりまねきよせる結果となりかねません。正月三が日の内にお寺へ参詣することが初詣であり、ご先祖の回向をすることが大切です。法華経によって新しい年の幸福を万里の外よりあつめて新しい年を生きましょう。日蓮上人は次のように示されています。
今正月のはじめに法華経を供養しまいらせんとおぼしめす御心は、木より花の
さき、池より蓮のつぼみ、雪山にせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし、
今、日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねきよせぬ。此を
もって思うに、今法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし、影は
体より生ずるもの、法華経をかたきとする国は、体にかげのそうごとくわざわい来
るべし、法華経を信ずる人は、せんだんに香ばしさのそなえたるが如し。
星祭

丹波 妙見堂 毎月妙見講例祭を行う北辰殿の内陣 切竹十文字 矢筈十文字 久留子紋 2005.3.7
平安朝の昔から行われて来た節分会(歳祭・星祭)の主な目的は、あらゆる災厄を除き払い、年中安泰にして福徳を願うためであります。その為寒中にもかかわらず厳しい修行と敬虔な祈りが要求されます。
私たちの周囲には、災難・剣難・水難・風難・病難・車難・争難・死難等数多くの災厄をもたらせる障魔が充満し、それを受ける多くの人がいる現状です。
そこで諸経中の最勝経典である妙法蓮華経の「病即消滅、不老不死」「現世安穏、後生善処」「諸余怨敵、皆悉摧滅」(薬王品)の経力を以て「当年の大厄をば日蓮に任せ給え」の金言を奉じ除災招福を祈願する法要を節分会というのであります。
特に男子の七歳・十三歳・二十五歳・四十二歳・六十一歳・七十歳・七十七歳・八十歳・八十八歳、女子の十三歳・十九歳・三十三歳・三十七歳・四十九歳・六十一歳・七十歳・七十七歳・八十歳・八十八歳は厄歳でありその前後をも注意を要するのであります。日蓮上人もこの厄年のことを、
「厄年の人の危き事は、少水に住む魚を、トビ・カラスなんどが伺い、灯のほとり
に住める夏の蟲の火中に入らんとするが如し、あやうし。鬼神やゝもすれば此の
人のたましいを伺いなやまさんとす」 と述べられ、その理由として
「神外と申して諸神他国へ遊行すれば慎んで除災得楽を祈り給うべし」
と厄年の人を守護する本尊や善神がいないから危いと仰せられています。
節分会には、氏名年齢干支を書き年中安泰の歳祭りを申込み、法華経の経力により除災招福を得、災厄から免れるようにするのが、法華経信徒です。
いうまでもなく、自分自身も声を大にしてお題目を唱え、三障四魔を払うことが大切であります。交通安全のお守りも車につけ、法華経の経力で除災しましょう。
VOL.115 2005.6.1
妙法寺のおまつり 2
釈尊涅槃会
お釈迦さまの入滅された日です。
最後の説法の旅に出たお釈迦さまはクシナガラ郊外でついに動けなくなり、弟子に沙羅双樹のあいだに床を敷かせ、そこに頭を北にして西向きに横たわられました。そして弟子たちが嘆き悲しむのを慰めながら、その夜静かに入滅されます。その光景を描いた涅槃像を掲げ、お釈迦さまの生涯をたたえ感謝するのが涅槃会です。
妙法寺では、毎年三月十五日に涅槃会をしてお釈迦さまに報恩のおつとめをしています。
総供養(春秋彼岸)
彼岸とは、梵語の波羅蜜の訳で、くわしくは到彼です。生死にさまよう苦悩の多い此の岸(娑婆世界)から、煩悩の中流を渡って、永遠の平安のある彼の岸(常寂光世界)に到るという意味です。
わが国で彼岸が行われるようになったのは平安時代の初期のことで、日蓮上人ご在世の鎌倉時代には、「現世安穏・後生善処」の祈願法として武士の社会に広まり、この頃より、彼岸の中日を期して、死者の冥福を祈り、自分の得道と成仏を祈願する風習が広まっていったようです。さらに江戸時代になると彼岸の行事は民衆の生活の中に入り、寺では施餓鬼法要が行われ、先祖供養の行事として、さまざまな習俗を生むようになったのであります。今日では先祖供養の日として、春秋彼岸の中日は、国民の祝日となっているのです。
彼岸の季節は、昼夜の時間が平均し、気候も暑からず寒からず中道の気候であり、それはちょうど仏さまの中道思想に通じています。そこでその中日を中心に七日間仏道修行の基本である六波羅蜜を実行し、後生菩提を求めるいわば仏教強調週間であります。
六波羅蜜の修行の根本はすべての物に感謝する報恩感謝の修行といえます。
そこで、お彼岸には自分が今日あることを感謝する意味において、ご先祖の回向やお墓供養するのも大切な彼岸中の仏道修行であります。日蓮上人は持妙法華問答抄に
一切衆生皆成仏道の教なれば上根上機は観念観法も然るべし、下根下機は
唯信心肝要也、されば経には浄心に信教して疑惑を生ぜざらん者は、地獄餓鬼
畜生に堕ずして十方の仏前に生ぜんと説き給えり、いかにも信心して次の生の
仏前を期すべき也
と示されています。
私たちは唯お題目を一心に信じれば、それは六波羅蜜の修行をすべて越える修行となり、後生善処の大願をも成就することになるのです。
妙法寺では、春の彼岸の中日に総供養をつとめ私たちの先祖さますべての供養をすると同時に戦争・災害・事故などで生命をうばわれた人々の霊に対し、安らかな冥福をお祈りしています。少子化や未婚、あるいは子に先だたれて家をついでくれるもののない人も多くなりました。総供養に参詣して心からお題目をお唱え下さい。
釈尊降誕会
お釈迦さまの誕生された日を記念し、花で飾られた御堂に誕生仏がまつられ、甘茶をそそぎます。「花まつり」ともいっています。お釈迦さまは、七歩あるいて「天にも地にもわれ一人、わたしはこの世を救うのだ」と天地を指さされました。私たちも自分に誇りをもち、命を尊びあい、この世の苦しみを救う祈願をささげましょう。五月八日
VOL.117
2005.8.27
妙法寺のおまつり 3
施餓鬼法会
お釈迦さまの十大弟子の一人に、神通力第一とうたわれた目連尊者がいました。尊者があるとき神通をもって自分の母の姿をみますと、餓鬼道に堕ちて痩せ衰えている姿がありました。これに心を痛めた尊者は、鉢に食物を盛って与えました。母は左手でこの鉢を持ち、右手で飯をつかむのですが、それが口に入る前に炎となって食べることができません。
母の苦しみをみて堪えかねた尊者は、母がどうしたら救われるかとお釈迦さまに教えを求めました。お釈迦さまは、母の罪が重く、目連一人の力ではどうすることもできないことを述べ、それを救う道を教えました。それは、七世の父母のため百味飯食、五菜を供えて、十分の衆僧を供養し、その力にすがることでした。
これから盆の期間(八月の十二日から十六日まで)中は、精霊棚を設けて、水・茶湯をはじめ、供飯、果物、野菜等を精霊棚にお供えをするようになりました。そして施餓鬼法要で先祖の戒名を記した塔婆をたて供養するのです。
棚経は、家族全員で、法華経の法味をささげることが大切であります。盆は七日頃から墓掃除をし、家の仏壇を掃除し、仏具を磨き浄め、精霊に供える野菜果物を求め、精霊棚を設け百味五果を用意いたします。迎え火をつけ精霊を迎えて、お寺さんに棚経をあげてもらい得脱を請うわけであります。
十三日を迎え盆、十六日を送り盆といいますが十五日に蓮の葉に飯を包んだ「蓮の飯」と「送り団子」を供え、お帰りになる精霊のみやげにするというのです。
祭るというのは迎え、もてなすということで精霊に喜んでもらい、自分の生き方をうかがい、霊と自分とが共同飲食し自分の生き方を反省し、自分は一代ですが名は末代、人間の行為は良きにつけ悪しきにつけ先祖を傷つけることにもなるので、俗にいう“親の七光”ともなれば“末代までタタル”ということにもなるので、精霊とそうしたことを語り合うのが施餓鬼の供養なのです。
施餓鬼は精霊をお迎えし、今は亡き人の冥福を祈り、鎮魂を願い、三悪道を離脱して成仏していただく「魂」と「魂」との語り合いの時です。
お盆の行事
お盆の行事は、人間の美しい心、思いやり、いつくしみの心がこめられております。お盆には今はなき先祖さま、父母、妻子が生家にもどってくると古来考えられ、心をこめて御精霊さまをお迎えします。
道に迷わないように迎え火をたき、墓には、盆灯籠をつけ、精霊さまが馬に乗ってお帰りになるというのでナスに割箸の足をつけ、とうもろこしの毛を尾にして馬を作り、野菜や果物を供え、喜びの対面が細くても長くなるようソーメンを供えしたり、ナスやウリ、洗米で作った百味飯食を無縁の精霊さまにお供えし、棚経をあげてもらい、亡き人に語りかけ、過ぎし一年を振り返る行事なのです。
お盆は、七世紀頃から始まったようですが、何故こんなことをするのでしょうか。それは死者に対する恐れと、追慕の情からこんな風習が生まれたのです。葬式や法事は死霊の冥福、追善、回向であり、それを三十三回忌まで済ますと、この世の穢れが浄化され、「ホトケ」となって子孫を守ってくれるとされ、感謝、報恩のお祭りをするようになったのです。
法華経は、正しい教えを実践することを通じて、正しい智慧を得て、それにより悟りの状態となり即身成仏すると説かれており、個人の悟りのみではなく、すべてのものの悟りを目標としています。
この世を去った精霊も輪廻転生の世界で苦しまないために、生き残った者が功徳を積み、それを死者に回向することによって、迷いの世界にいた精霊は成仏することができるとされています。
人間にとって最も大きな悲しみは、自分が死ぬことよりも、自分が愛したものを失うことです。肉親の死はとてもつらいことです。子や孫の死は、もっと悲しいことです。
一人の人間としての、「生命の不思議」に対する感謝の表現が供養であり、今は亡き親しい方が死後の世界でただ一人で餓え渇き苦しまないようにと願うのが慈悲の心です。供養は生きているものにとって死者に敬愛・報恩の気持ちをつたえる唯一の方法です。
先亡の供養は心から感謝の念をささげなければなりません。やがて自分も死する時がくるが「迷い」の世界に入らない努力を先祖に誓うのです。先祖をまつることは自分の足元を見つめ、自分の生活を守ることで、子孫の未来を開きます。年忌の供養も大切にしなければなりません。
VOL.118 2005.12.19
妙法寺のおまつり 4
御会式
宗祖日蓮上人は弘安五年九月八日、身延にお住い遊ばされること九ヶ年、その間お弟子やご信者の指導教育にたいへんお忙しい毎日でありましたが、お弟子やご信者のすすめにより、療養のため草庵をお立ちになられました。
庵の内には昼は終日一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす。
伝え聞く釈尊の住み給いけん鷲峰を我朝此砌に移し置きぬ、霧立ち嵐はげしき
折々も山に入りて薪をとり、露深き草を分け深谷に下りて芹をつみ、山河の流れ
も早き巌瀬に菜をすすぎ袂濡れて干わびる思いは、昔し人丸が詠じける和歌の
浦にもしほ垂つつ世を渡る海士もかくやとぞ思い遣る、つくづく浮身の有様を案ず
るに仏の法を求め給いしに異ならず・・・・。
身延のご生活が大変困窮であったことがしのばれます。
そして、おもてむきは常陸の湯に行くとし、内心は入滅をさとられ、秋色そぞろな甲斐路を十日の旅、竹の下を経て、十八日に池上宗仲の家に着かれたのであります。
池上宗仲の邸で、お弟子とご信者に立正安国論の講義をされたのですが、これが上人の最後の講義となったのです。
病重く間近かに入滅を迎えられることをさとられた上人は、お弟子やご信者に法華経の教を誤りなく後世の人に伝え、信心をたやさぬようにと遺命され、そして上人の終生の願いであった、帝都(時の都、京都)布教を、日朗上人の縁者の子、経一磨(後の日像上人)に遺言されました。
池上宗仲の邸で、お弟子や、ご信者一同涙を流しながら、合掌し声をあわせてお題目を唱えるなか、日蓮上人は眠るがごとく入寂遊ばされました。
秋のおわりにもかかわらず、庭園の草木は、桜をはじめ、いっせいにその花を開き、上人のご入滅をかざったのであります。
時に弘安五年(一二八二)十月十三日、午前八時、ご聖寿六十一歳でありました。この日を御報恩会式というのであります。御会式は、お彼岸や、うら盆の法要よりも、大切な報恩法要と言えるのであります。法華宗信徒ならば御会式法要には、必ず参詣するようにいたしましょう。
日蓮は教主釈尊の御使ならば、天照大神正八幡宮も頭を傾け、手を合せて地に伏し給うべき也。法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給う。かかる日蓮を用いぬるとも、悪く敬はば国亡ぶべし。
妙法寺の会式法要は、十一月十三日です。
除夜の鐘
除夜法要は、大晦日に修行される法要で、その法要とともに除夜の鐘が鳴り響きます。除夜の鐘は過去一年間の煩悩が「除かれる夜」という意味で打ち鳴らされる百八(百八煩悩)の鐘のことをいいます。
今年一年の自分の生活を振りかえり、日常生活において心を煩わし身を悩ましている煩悩(むさぼり、いかり、おろか)を滅して、心の安らぎを得ようとして、また今年一年の反省をし、新しい年を迎えるにあたって、新たに、信心の志を得ようとするのが、この法要であります。
また一年間家庭が安穏に過されたことは、ひとえに、仏祖三宝のご守護によるものでありますから、一年間の仏恩の報謝のため、お仏壇の掃除をし、本年最後の感謝の法味をささげます。またお寺の除夜法要に参詣して、一年の締めくくりをするのです。
法華宗寺院の除夜の鐘の音は「朝に響かば梵音(仏さまのお声)となり、夕に響かば、清浄の泉となり、法華のみ法を伝え、鐘韻永えに澄み、一天四海安穏、自他の所願、成就ならしめる」ありがたい鐘の音であります。
VOL.122
2006.8.2
妙法寺の由来
青垣町佐治は延喜式に宿駅としてその名がある歴史の古い土地柄であり、妙法寺のある小倉村も支村の森に式内社のある村落であり、古墳・タタラ跡も存在しています。
承元三年(1209)に武蔵国足立郡より佐治庄の地頭として配属された足立遠政公は、山垣城を築いていますが、屋敷は小倉にあり、妙法寺の境内も下屋敷と称されている景勝の土地です。足立氏勧請の諏訪神社があり、有名な遠谿祖雄が建立した岩屋山高源寺があり、室町時代には岩本城主足立宗次入道の居城があり、北方守護として岩本村の黒尾神社を小倉に遷座して毘沙門天王を勧請していることなどがあります。
妙法寺は正徳年間に小倉の大火で類焼したので、古記録は存在せず創立期の由来はあまりはっきりしていません。しかし、天正十年(1582)の桑山修理亮重勝の制札、文禄三年(1594)に什物となっている命尊筆涅槃像、天正十一年(1583)の総本山七世後不軽院日脩上人の讃のある智願院日岏上人画像など十六世紀の寺宝も現存しているので創立期の寺容はそれからうかがうことになります。
由来についての記録は、元文五年(1740)の九世日恵のもの、寛政六年(1794)に完成している福知山藩士古川正路の「丹波志」の記述、岩本毘沙門庵鐘銘、文政三年(1820)に恵門院日原が中島勘兵衛取次で牧備後守の役所に提出した「立正山妙法寺由来」などです。
丹波志の記述
当寺元来河向い市原村の内岩本にありし庵室なり。然る処元亀の頃開山権大僧都智願院日岏上人、京の本山より弘通弘法に下向して、則ち岩本の庵室にて毎日説法せり。当所の郷士足立氏左衛門太夫という者、真言宗の仏音にて、智願院を招き、三日三夜宗論問答し、終に帰依して改宗す。其上足立氏の下屋舗を開山に寄附す。故に建立一寺ものなり。境内に足立氏の石碑あり。源勝院天正十一年正月十八日、足立左衛門太夫、同彌七郎宗忠、同足立左近。七日は妙法童女、是は足立氏の娘なり。則ち寺号とす。寺内制札あり。三ヶ条、天正十年六月日桑山修理亮重勝印、杉若藤七部無印、これは秀長の家士なり。又村方より万治年中に境内竹木猥に伐り捕る故、住僧止む事を得ず、大津御代官小堀惣左衛門殿に願い、副幹あり、村方にも其制あり。
岩本毘沙門庵鐘刻文
岩本部落の村社は毘沙門天王を祭祀する庵寺である。大明寺へ黒川郷を寄進した足立宗次入道が、岩本城を築城した時にもと黒尾神社であったものを小倉に遷座して、そのあと地に北方守護神としての毘沙門庵を建立したと考えられる。この鐘は太平洋戦争に供出したが、鐘銘写は福知山市の日新堂足立一彦氏所蔵のもの、寛政十一年は1799年である。
立正山妙法寺由来書
恵門院日原筆の由来書は文政三年(1820)に十五世日原が中島勘兵衛の取次で牧備後守に提出したものの写で、正徳元年(1711)に小倉大火の類焼で焼失とあり、京都奉行所に差出された書付には「寛永年間当寺焼亡仕一時に灰燼と相成」という記述もあり、堂宇は二度焼亡したのかもしれない。
VOL.123
2006.8.24
足立権太兵衛基則公
足立遠政は武蔵の国足立郡より承元三年(1209)丹波に転住し、氷上郡佐治荘を与えられ、それ以来足立氏は専ら佐治郷の経営にあたり、その曾孫遠谿祖雄が小倉村に高源寺を開創した。この高徳の師の法統は長くつづき、また足立一族は宗教心の向上啓発されるもの多く、よって他族に侵されず、他族を侵さず長くこの地の支配をした。
足利中期より次第に勢力を得てきた新郷の赤井氏は附近の豪族を制圧し、殊に悪右衛門直正は黒井城主となり丹波半国と但馬の一部までもその勢力圏に入り、足立一族も遂にその幕下に加わるようになった。
丹波志によると、「山垣城主足立彦助の代に明智光秀の征伐により一旦落延び、其の後彦助此所に立帰り山垣殿と云えり」とあり、又、「加茂郷上村足立氏、古えは赤井氏家臣の筋なり」 「牛河内村先祖山垣城主の長男四郎左ヱ門基依、山垣村没落後此所に住す」、などから見ると天正年間の足立一族の中には、一部赤井氏たちの家臣となっていた者もいるが、多くはなお佐治郷郷士として赤井氏または西波多野氏らに従属していたのではあるまいか。
数年にわたり、幾度となく繰り返された光秀の大攻勢に抗した足立一族は、たとえ本拠山垣落城、諸寺焼亡、家屋焼失などの戦禍を受けても依然として祖先の墳墓の地に留まるものが多かった。
丹波志によると、「当所郷士、足立氏左ヱ門太夫というもの、真言宗の仏音にて智願院を招き、三日三夜宗論問答し、遂に帰依して改宗す。其の上、足立氏の下屋敷を開山に寄付す。故に、建立一寺のものなり」とある。
天文年間であるから天正以前で、光秀の丹波攻略戦以前にすでに妙法寺の建立されたことを証明している。各種の郷土史をひもといても、光秀らによる丹波天正の乱において足立権太兵ヱ基則についての記述は殆んど見られない。
足立一族はこの動乱で、本家山垣殿はじめ、その一族一統の殆んどが或いは但馬に、また遠く因幡丹後へと亡命し、その他現地に留まったものはいずれも帰農したが、不思議にも基則一族だけは別であった。
それは、その後天正十一年(1583)正月十八日に、権太兵ヱ基則は子息左近進宗忠並びに舎弟弥七郎宗立と、親子・兄弟三人が亀山で自害している事実によって明らかである。
延々五ヵ年もつづいた光秀の丹波動乱は、天正七年八月赤井氏の居城黒井保月城が落城、同年十月福知山鬼ヶ城の落城で終っている。すると権太兵ヱは、それより四年後自害していることになる。
赤井氏に代って、斉藤利三が黒井興禅寺を本陣として二万石の領主となり、また天正十年(1582)六月には光秀の謀反によって信長が自害し、その後秀吉の天下となるのであるが、足立権太兵ヱは足立の主流を離れ、その近親者と共に造反者となっている。
足立権太兵ヱの足立家主流からの造反、いつの間にかできた光秀との主従関係によって、菩提寺妙法寺の安泰と従来からの領地の安堵を得たものの、本能寺の変により勝手知った丹波各地を転々とするうちに、「明智の残党狩り」にかかり、遂に天正十一年正月十八日亀山で三人揃って自害したのではなかろうか。
権太兵ヱの孫、宗忠の三男にあたる孫兵ヱ尚秀は、当時紀州和歌山藩に仕えていた叔父の碓井重兵ヱ守長を頼って行き、その後町奉行となっている。
(足立勲記)
VOL.124 2006.11.9
大仏師法眼命尊の涅槃像
VOL.127 2007.3.18
妙見講
丹波妙見さん縁起
妙見大菩薩は国土を擁護し、災を消滅し、敵を却け人の福寿を増益する菩薩として信仰されてきました。能勢妙見山は、平安末期に多田満仲が妙見大菩薩を勧請し、城の守護神としたところ霊験あらたかとなり、関西地方一帯に信仰がさかんになりました。
妙法寺の妙見山は、文政時代に良山院日皓上人が縁あって能勢家に伝わっていた受太刀姿の御霊像を拝受し、妙見堂を建立してお祭りしたことに始まり、忍辱慈悲の御霊体は霊験あらたかで、人の運を開き福寿の御加護ありと尊崇されてきました。
昭和初年には、能勢妙見山本殿と同一の北辰殿が建立され、丹波妙見山として心徳講、妙栄講、妙鶴講、丸栄講等の講中あり、さかんに信仰された。昭和五十三年、北辰殿の改修がされ、これを機会に妙見講の再発足がなされました。
私たちは私生活におわれ忙しい毎日を送っていますが、心の安らぎを求めたり、趣味をもって生きがいのある日々にしたいとか、信頼できる人と共に楽しい時を過ごしたいという願いを強くもっています。
信心というと不運、災難に泣くものが求める迷信だという人もありますが、それは自分の尊い霊性 ―宗教心― を自覚しないか信仰の真実を知ろうとしない人です。また宗教に対する無知につけこみ弱点に乗じて困った信仰が流行していることも事実です。
「物や金」が「心」より大切にされ「我欲」ばかりで人間らしさが失われています。物に心が奪われては幸福な生活はなく、「人は人、自分は自分」という考えでは人も家庭もダメになります。
法華経の教え、日蓮上人の信仰の重さに気づき現代社会でそれが不可欠であることを主張する人が増えています。法華経信仰の人々の生き方に共通するものは、正義感と行動力を持ち、社会的ひろがりのなかで、人々とともに生きる幸福を追求する生き方です。
妙見講にあつまって、お互いに心を磨き、御仏の慈悲に照らされた生きがいのある人生を歩みましょう。

「立正山 妙法寺」 1998年刊 136p ; 18.5cm 定価1,000円
法華宗真門流 立正山 妙法寺
〒669−3812 兵庫県丹波市青垣町小倉809
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