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◇10 命尊「仏涅槃図」
平成19年(2007)、日本経済新聞1月23日付記事
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今回、十枚目の絵に選んだのは、鎌倉期の命尊の作、『仏涅槃図』だ。私の想う動物画の究極はこれである。 (一三二五年、絹本着色、一〇九.二×八〇.四センチ、兵庫・妙法寺蔵)
1.ルソー 「眠れるジプシー女」 ニューヨーク近代美術館 |
Death of the Buddha By Myoson 平成15年(2003)春、東京国立博物館と奈良国立博物館の特別展に、丹波・妙法寺秘蔵の仏涅槃図・命尊筆を出品、一般公開させて頂きました。 |
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奈良国立博物館 東・西新館 主催: 奈良国立博物館・産経新聞社 ― 鎌倉仏教と女性 仏涅槃図 一幅 兵庫 妙法寺 ― 絹本著色 縦123.6 横89.6(描表装とも) 鎌倉時代 正中2年(1325) Women and Kamakura Buddhism
Nirvana
of the Buddha (Butsu nehanzu)
背面の貼紙に次のような、製作時期・開眼導師・絵師・願主を記す整った内容の墨書がある「正中二年乙巳三月廿三日開眼導師西大寺泉律師絵師命尊南京法華寺比丘尼玄本本尊也」。 法華寺の玄本という尼僧は、永仁元年(1293)発願で、叡尊十三回忌の正安4年(1302)に完成した西大寺の「文殊五尊像」の中尊納入品のうち「大般若経」巻五百七十三の奥書に、「永仁三年三月十日 書写了 少比丘尼玄本」と名を記す人である。 絵師命尊は、暦応3年(1340)に完成した興福寺の木造吉祥天像の台座裏墨書銘に、彩色担当者として「絵所大仏師法眼命尊」と記されるのと同一人とみなされ、鎌倉時代初期に活躍した尊智の直系と考えられる南都絵仏師である。本図の背面貼紙には他に、海龍王寺常住の銘と、文禄3年(1594)の妙法寺常住の銘もあり、伝来が辿られる。 本図と関連の深い作品に藤田家旧蔵の「仏涅槃図」があり、その背面貼紙には、法華寺常住、元享3年(1323)作、願主は比丘尼行施、絵師は法橋命尊の旨が記されている。行施もまた、「文殊五尊像」納入「大般若経」巻五百四十七を永仁6年に書写しており、同じ環境にいた尼僧二人がそれぞれ涅槃図を、同じ絵師を用いて製作したわけである。 両本の図様は基本的に共通し、おおむね涅槃図の一般的な形式にもならっているが、寝台の向かって右下隅部に配された、尼僧と認められる二人物が特徴となっており、願意に関わる要素かもしれない。なお行施本には、その方が法量が大きいこともあってか、上記の二尼僧の周辺に女性の姿が多く描かれているのが注意される。 奈良国立博物館 学芸課 ― 法華経の美術 仏涅槃図 命尊筆 一幅 兵庫・妙法寺(青垣) ― 絹本着色 縦109.2 横80.4 鎌倉時代 正中2年(1325) Arts of the Lotus Sutra Death
of the Buddha By Myoson Nichiren
Art and Belief January 15
to February 23,2003 釈迦の入滅を描く仏涅槃図は、諸宗派において陰暦2月15日の涅槃会の本尊とされる。日蓮も『祈祷鈔』で涅槃の光景を述べ、残された者が『法華経』弘経の誓いを新たにすべきことを説いている。 裏書によると本図は、もと奈良・法華寺の比丘尼玄本の本尊として発願され、南都絵仏師命尊が描いて西大寺律僧がこれを開眼し、のちに隣接する海龍王寺の所有となっている。すなわち本図は、南都の真言律宗における釈迦信仰の伝統のなかで伝世したことが知られる。 一方妙法寺は、天文22年(1553)に地頭の足立基則によって創建された。基則没後は桑山重晴が同寺を外護するが、重晴は天正13年(1585)まで、大和郡山城主であった豊臣秀長に仕えている。このことから本図は、重晴が南都で入手し、裏書に記される文禄3年(1594)までに妙法寺に寄進したものと推測されている。 作者の命尊は、興福寺一乗院の松南院座の絵仏師。本図のほかには暦応3年(1340)の興福寺金堂の吉祥天像厨子の画事などが知られる。いずれも明快な作風と細密な描写をみせ、14世紀の典型的な南都絵仏師の作風を示している。
東京国立博物館 学芸部美術課 |
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額絵 |
色紙 |
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大仏師法眼命尊は大夫法眼快智の孫にあたる南都絵師である。この命尊について従来知られている史料は二点である。一つは、興福寺の吉祥天像台座裏墨書である。
文化庁文化財調査官 宮島新一 |
仏涅槃図 命尊筆
拡大写真 平成17年3月7日撮影
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